ちょっとした餘興ということで、簡單乍ら千野帽子氏の發言について書いておきますと、まずこの文章、「ミステリマガジン」のバージョンは千野氏自らが書かれている通り、「CRITICA」に掲載されている同内容の論考をバッサリと約十分の一の長さにしたものでありまして、「CRITICA」バージョンに比較すると非常に舌足らずなものになっています。
「CRITICA」バージョンでは「ボクら派」について述べるとともに、笠井氏の主張にも通じる「村」の世間としての読者共同体をさりげなく茶化してみたりと、言及されている内容は多岐にわたり、それ故、自分のようなボンクラには今ひとつ論旨が・拙みがたいというところがあってアレなんですけど、とりあえず千野氏のいう「ボクら派」の定義については「ミステリマガジン」バージョンの中でハッキリと述べられておりまして、
ボクら派とは、< 僕が好きになったから世の中がそういうふうに動いたとも感じ取れる>というような、(若年期)体験の共有によって自身=固体と読者=種とを意識的・無意識的に同一視する立場です。
ですからただ自らの読書嗜好や「僕らの幸せな読書体験」を語っているだけでは恐らく、千野氏のいうボクら派とはなりえない筈です(因みに「僕が好きになったから世の中がそういうふうに動いたとも感じ取れる」というのは、山口雅也氏監修『ニューウェイブ・ミステリ読本』所收の、二階堂氏へのインタビューからの引用)。
という譯で本格ミステリ作家クラブのメンバーが自らの幸せな読書体験を誌上でいくら語ろうともそれだけでは僕ら派といえない、ということは分かっていただけると思います。
ちょっと解せないのは、二階堂氏も「ミステリマガジン」バージョンを讀まれる前に、「CRITIACA」バージョンの「少年探偵団 is dead, 赤毛のアン is dead.」に目を通している筈なんですよ。なのに何故些か舌足らずとなっている「ミステリマガジン」バージョンの内容だけを取り上げてこのことに言及しているのか一寸不思議、というか、「ミステリマガジン」の縮小版にもボクら派の定義は明確にされている譯で。
ところでこの千野氏のいうボクら派でありますけどやはり個人的には、そうなのかなア、ちょっと違うんじゃないかアというかんじがしますよ。というのも、「CRITICA」バージョンには以下のような記述があって、ボクら派に屬するとされる作家の名前を列擧されているのですけど、
二階堂黎人さんが名づけたように、一九八〇年代前後に生れた世代が< キミとボク派>であるならば、では五八―五九年に生れ、キャラ小説化やメタ・叙述トリックに否定的で、レトロ趣味やパスティーシュ好みを共有している二階堂さん・芦辺拓さん・加賀美雅之さんは、何派、ていうか、誰派なのでしょうか。
「ボクら派」です。
でも芦辺氏は新島ともか嬢萌えのファンがいることは承知の筈でしょうし、最新作の「千一夜の館の殺人」などはキャラ小説化といえないまでも、ともか嬢にスポットをあてたファンサービスも盛り澤山の傑作だった譯で、こういうところからも芦辺氏がキャラ小説化を一概に否定しているということはないと思うんですよ。勿論ここで「千一夜」で行われているようなものは千野氏のいうキャラ小説化とは違う、という所謂言葉の定義からシッカリと論旨を突き詰めていくというのもアリでしょうけど、それをやると本格ミステリの定義とは云々というかんじの無限地獄に陷るのは目に見えているので、ここではまあ、バッサリと割愛します。
さらにメタミステリという點に關しては「グラン・ギニョール城」のあとがきでも芦辺氏は、クダラないメタミステリには否定的な意見を述べつつも、メタそのものを否定しているという譯ではない。叉メタ的な構造に意識的だったからこそ、「紅樓夢の殺人」という歴史的傑作をものにすることが出來たともいえる譯で、……なんて自分は考えてしまうんですけど如何でしょう。
また芦辺氏が叙述トリックに否定的ということもないと思うんですよねえ。芦辺氏の短篇にしてイジワルミステリの佳作、「読者よ欺かれておくれ」は鮎川御大のあの作品をリスペクトした、まさにアレ系の作品であったことは記憶に新しいところです。
という譯で、少なくとも芦辺氏が千野氏のいうボクら派に屬するというのは、ちょっと違うんじゃないかなアと思うのでありました。とりあえず反論になってますかねえ、これ。