傑作。「時代を通して本格ミステリを読む」というジャケ帶の言葉や、「あとがき」の「本書は本格ミステリを主題に八〇年代以降の時代環境を論じている」とある通りに、本格ミステリを主題に据えつつも、その内容が本格ミステリも含めた社會批評にあるという本作は、巽千街福井氏といったミステリの構造そのものにドップリと入り込んでミステリ「そのもの」の正体を見極めようとする風格とは異なり、どちらかというと笠井氏のような立ち位置に近いものながら、大元となる自説を大聲でアジテートするようなものではありません。
円堂氏の語り口は流麗にしてスマート、そして氏の主張以前に、ミステリ評論家の中では千街氏のそれと並んでその文章、文体が個人的には好みであるゆえ、本作も大いに愉しむことが出来ました。特にここ最近のミステリの評論というものに對する評價を遠卷きに眺めながら、「あーあ、これからはミステリをしっかりと讀むには論理学とか何とかのコ難しいお勉強もしなくちゃいけないとは、……はふう、いやな世の中になったなあ」なんて溜息をついてしまっている自分のようなボンクラにはまさに福音ともいえる一冊でありまして、「時代環境を論じ」ているものとはいえ、「難解な現代思想に関する検討は脇に置」(105頁) いて、作品の描かれた時代背景も交えながら作家論や作品の深奧を見極めていこうとするアプローチは興味深い。
全体を「基本感情」「場所」「人・アイデンティティ」「システム・世界」「人とシステム」「「青春」「紙の本」以後」に分けて、有栖川有栖から北村猛邦、山田正紀までを論じており、「はじめに」にもある通りに「各論でテーマが呼応するネットワーク的な構成になっている」ゆえ、フと氣になったところにはシッカリと付箋を貼ってそのたびに讀み返していくとより愉しめるのではないでしょう。
例えば「「人間」を描くための「眼」」と出した道尾秀介論では、例の「人間が描けていない」という新本格黎明期の批判に道尾氏のミステリ観を對蹠させながら論じていきます。その冒頭部では、新本格批判の文脈における「人間」と道尾氏が述べている「人間」が「同じ意味を持っているとは考えがたい」と、批判を論じていく上では当然必要とされる言葉の意味、定義に敏感なところを見せながら、そのすぐあとに、
新本格批判が想定したのは、性格や行動に一貫性、まとまりがある存在で、書き込めば書き込むほど厚みを持つようになってリアリティを増す――そのような「人間」だったはずだ。
と「リアリティ」という、新本格批判を語るには「人間」という言葉と同樣に必ず遡上に挙げられるべきその言葉についてはさらりと受け流してしまうところに思わずおや、と思わせるものの、これを後半部においては道尾ミステリを論じながらそれらの疑問についてもシッカリとした道筋を用意してみせるという伏線回収のような手際の良さを見せる一方、綾辻氏を論じた「シングル・ルームとテーマパーク」や貫井論である「現実感の裂け目の不条理」を讀み返すことで、このあたりについてもキチンと讀者に考えさせる機会を與えているところなど、ただただ自説を聲高にアジテートするのではなく、讀者の興味を惹きながらその思考を促し、導いていこうとする構成も秀逸です。
巽千街福井氏の風格のように、本格ミステリの作品構造そのものを緻密に分析していくものではないとはいえ、例えば、「シングル・ルームとテーマパーク」で、「十角館」におけるエラリィのミステリ談義がひとつの仕掛けになっているところを指摘している箇所や、個人的にはホラーとミステリを兩輪とする綾辻氏の作風から、論理では割り切れない餘剩である「怪異」に對して、それを情報操作という文脈から「ノイズ」として考察をすすめていくところ、――或いは摩耶雄高論である「交換可能な人、あてレコ的な世界」における「セカチュー」の分析など、はっとさせられるようなところも多く、時代環境云々に興味がない方もまた十二分に愉しめること請け合いです。
また、円堂氏ならではの、本格ミステリから音樂へと流れる論旨の展開も本書の大きな見所のひとつでありまして、この中ではジョン・ゲージとイーノを挙げて京極ミステリを論じた「モノ化するコトと「環境」の多面性」を興味深く讀みました。キワモノマニアとしては、道尾氏の「片眼の猿」を取り上げたところでは、マリア観音の「二つ目小僧」を是非とも紹介していただきたかった、――なんて妄想してしまったのですけど、これはどう考えても無理な話(爆)。
あと「ゼロ世代の解像度」において「女王国」と「インシテミル」を論じているところなのですけども、個人的には「全体的な完成度」よりも、二つの作品においては、古典ミステリの構造を意識した仕掛けと「謎」の呈示における技法の相違という二つの點に興味があったりします。
「女王国」には、例の教團が建物を閉鎖状況にする「謎」と殺人事件の「謎」のふたつがある譯ですけども、前者は「主」でありつつも、これは本來、讀者からは隱蔽されるべき「謎」であって、――もう少し違う言い方をしてみると、讀者には殺人事件という「謎」を前面に押し出して、この物語世界全体を覆っている「主」としての「謎」は讀者に意識させない構造になっている。
このあたりの謎の扱い方は、前のエントリにも關連するのですけど、現代ミステリの特色の一つでもあって、謎の隱蔽、あるいは主たる謎を隱蔽するための誤導、という技法に目を向けると、もう少し面白い「讀み」が出來るのではないかな、という氣がします。「女王国」は、「殺人事件が発生し、それを探偵が解決する」という古典から續く定番的なミステリ小説の構造を前面に押し出すことによって、閉鎖状況にまつわる「主」の「謎」を隱蔽しているのに對して、「インシテミル」では、このテの話では当然用意されるべき密室がアレだったり、人形の取り扱いに關してアレだったりと、これまた古典から續く定番的なミステリのガジェットに「ずれ」を施すことによって、ミステリという物語の構造を皮肉っている。
「インシテミル」が、古典ミステリだけではなく、現代ミステリまでをその皮肉の対象としているのであれば、新本格以降の、物語世界にかかわる謎というものに對しても、「密室」や「人形」と同樣、何かしらの「ずれ」を用意してそれを伏線として呈示していた筈で、それがスッポリと拔けおちていることを考えると、この作品における皮肉はあくまで古典ミステリばかりを礼贊する教養派のマニアに向けられたものに過ぎないのではないか、――というフウに、「主」たる謎が拔けおちている「インシテミル」の構造に對して、自分は批判というよりは、寧ろそれをこの作品が向けている皮肉・批評の「尺度」として理解したのですけど、……やはりこういう「讀み」はかなり特殊、なのカモしれません。
本作でもっとも心惹かれたのは、「「本の終焉」以後の小説」の中、「少年檢閲官」のエノとクリスとの關係を分析しながら、北山ミステリが目指そうとしているものを論じている部分でありまして、円堂氏らしい、評論でありながら何處か叙情性をも感じさせる文章が美しい。「論理の蜘蛛の巣」や「水面の星座」と同樣、何度も讀み返したくなる一冊で、新本格以降の現代ミステリとその時代背景との連關について興味のある方には大いにオススメしたいと思います。