リーマンSF。
高度経済成長時代のリーマンを活写した本作にはタイムトラベルものの名作「名残の雪」のほか、リーマンの哀愁が美しい幻想譚となって結実した傑作「砂丘の女」、さらには猫好きは感涙必至の恐怖譚「ピーや」を収めた本作は、名作傑作集ばかりのふしぎ文学館シリーズの中でもかなりお氣に入りの一册です。
最初を飾る「仕事ください」は以前取り上げた筒井康隆編の恐怖小説傑作選「異形の白昼」にも収録されていた短編で、グデングデンに醉っぱらったリーマンが路地裏でクダを巻いていると、そこに男のいうことは何でも聞くという薄気味悪い奴隷が御登場、という話。哀愁リーマン主人公の描写が素晴らしく、職場にヌボーっと現れては「ご主人樣、仕事をください」とつきまとう奴隷男はあまりに不氣味。最後は例のオチで決めつつも、路地裏の電信柱や犬といったあの時代の小道具を使った雰囲気づくりが旨すぎる一篇です。
續く「ピーや」は短い乍らも、猫好きにはぐっとするこれまた傑作。自分など何度讀んでも最後の猫がアレするシーンでは泪が出てきてしまうんですけど、他の方の感想を探してみると「怖い」という意見が大勢を占めているというのはどういうことかと。
アパートで猫を飼っている男の日常を淡々と描きつつ、猫の視點から男を見つめる描写が出て来る中盤から、物語は幻想譚へと變じていきます。やがて男は事故に遭い、それでも彼の帰りをずっと待っている猫がしたこととは、……。とにかく總ての猫好きに讀んでもらいたい傑作掌編でしょう。自分的には怖いというよりも哀し過ぎますよこの幕引きは。
「すべり込んだ男」、「サルがいる」、そして「風が吹きます」の三篇は、いずれも異界に迷い込んでしまった男の恐怖を描いたもの。個人的にはリーマンをダウナーな悪夢に突き落とす「すべり込んだ男」と「風が吹きます」が好みですかねえ。
「すべり込んだ男」は列車の事故をきっかけにパラレルワールドに迷い込んでしまったリーマンの話で、彼はこのもう一つの世界でバリバリ働き素晴らしい地位を得るに至るのですが、再び出張で乘りあわせた電車で同じような事故に遭遇して、……という話。凡人リーマンはいくら努力しようとも總てはご破算になってしまうんだよ、という苦しい教訓を含んだ幕引きが何とも苦い。
「風が吹きます」も同じように新幹線に乘ったリーマンが過去に遡ってしまうという話。電車は新幹線のひかりで、ビュッフェとかがあるのが妙に懐かしい、っていうか昔は新幹線にも食堂車があったんですねえ。主人公が食堂車でくつろいでいると、若いアバズレ女とチンピラ男がデッキでセックスしているところを見つかって大騒ぎ。女の顏がどうも何処かで見たような氣がして仕方がない主人公。いろいろあって彼は現実に戻ってくるのですが、そこで彼はひかりの中で見たアバズレ女が誰だったのかを思い出して、……。これまた主人公を奈落の底に突き放して終わるという幕引きが辛すぎる一篇ですよ。
「針」「むかで」「蝶」、「さむい」「ネズミ」「犬」はナンセンスの効いたふしぎ小説。この中では不條理な展開が相當にキている「むかで」が面白い。小心者のリーマンが高飛車なお客に関西弁でしぼられていると、ふと妙な気配がする。見ると男の足下にむかでが這っていて……。このあとも無能な部下の処遇を部長と相談している時にもむかでがゾワゾワと現れたりするのですが、果たしてそのむかでの正体は、という展開で引っ張るのかと思いきや、最後にトンデモないハジケ方をして物語は唐突に終わります。
「蝶」もこれまた無能なリーマンが主人公のお話で、書類を工場へ届けに行く道すがら、男は一頭の蝶を見つけます。蝶と出會った男が出社してくると、仕事が出來る男に変わっていて、職場の皆は吃驚仰天、果たして男に何があったのかと訝るところへ電話がかかってきて、……。最後は予定調和的乍ら、リーマンが現実の束縛から解放される幻想的なラストが印象に残ります。
「奥飛騨の女」は中年男の郷愁と哀切が最後に効いてくる恐怖小説で、物語の舞台はタイトルにもあるように岐阜は奥飛騨。高山本線に乘ろうとする彼は、若い頃に体験したある恐ろしい出來事を思い出します。リーマンになってまだ二三年と若かった當時、男は飛彈の高山を目指して乘った電車の中で美しい女に出會います。彼は女に連れられて、高山の観光巡りを行うのだが、実はその女の正体は、……という話。若かりし頃を回想する中年の苦さが際だった幕引きがこれまた素晴らしい作品です。
リーマンの悲哀という点では續く「砂丘の女」がピカ一でしょう。同期入社の男は鳥取に左遷されていて、本社に務める出世頭の主人公はある日、出張で鳥取の支社へと赴きます。本社と違ってどうにもダルダルな雰囲気にウンザリしながらも、彼は同期の男の話に耳を傾る。曰わくここにはすでに他社の製品ががっちりと根をおろしてしまっていて、あとから來た我が社のものに切り替えさせるというのはどういうことなのか分かっているのか、ここは東京じゃない、きのうまでの関係をあっさりと切り捨てられる客がごろごろしているわけじゃないんだと。要するに田舍には田舍のやりかたがあるんだという譯です。
そして同期の彼は主人公の男にもう一泊して鳥取の観光巡りを、この土地をもっと知ってもらいたいと勧めます。氣乗りしなかった主人公ではありましたが、一日をかけて名所巡りを終えたあと最後に夕暮れの鳥取砂丘を訪れる。そこで彼は和服の清楚な女性と出會うのだが、……。
旅館に帰った彼の元に、その夜、砂丘で出會った女が訪ねてきます。夢うつつのなかで見た女は果たして幻だったのか、と、目を覚ました彼が布団を持ち上げてみると、人間のかたちをかたどったように土が盛られている。果たしてあの女は砂丘の化身だったのか……。
もしこれが東京の出來事であったならば決してこんな奇矯な考えには至らなかったに違いない男は、それ以上女の正体については詮索するのをやめてしまいます。男の内面をさらりと描いたところは見事というほかありません。そしてラストの幻想的で美しいシーン。當にリーマンの悲哀と、立ち上る靜かな感動を心ゆくまで堪能していただきたい傑作です。
しかし作者の文体にはまったく飾ったところがなく、幻想小説好きの自分からすれば寧ろ淡泊に過ぎるくらいなんですけど、かくも心に沁みいるのは何故なのかと。「ピーや」の、いっさいの無駄を省いた構成と終盤の轉結がもたらす悲劇的な幕引き、そしてこの「砂丘の女」の、現実の悲哀から幻想を介して主人公が希望を獲得していく後半の、群を抜く美しい場面。そのすべてにグッときてしまうのは、これらの物語の主人公に過剩なほど自分の姿を重ね合わせてしまう故でしょうか(爆)。
「潮の匂い」と「名残の雪」はいずれもタイムトラベルものを扱った中編ですが、特に「名残の雪」はタイムトラベルへさらにもう一捻りを加えた傑作。最後の眞相に広瀬正のあの作品を連想してしまうのは自分だけではないでしょう、ってネタバレですか。
「潮の匂い」は自転車でふと海を目指して繰り出した男がタイムスリップをしてしまう話で、最後に男がこの世界で生きていく決意をするに至る幕引きが鮮烈な佳作です。
そして「名残の雪」は、会社に殴りこんできた右翼くずれのキ印に撃たれて死んでしまった男の手記。亡くなった男の家を訪ねた僕は、遺品の中から見つかった手記を讀み始めます。果たしてそこには男が幕末の過去にタイムトラベルを行ったことが記されていて……。新撰組が出て来るあたりがかなりツボですねえ。
猫好きは絶對に讀んで欲しい「ピーや」、そして恐怖小説と郷愁哀切の融合が素晴らしい「奥飛騨の女」、さらにはリーマンSFとして作者の技の冴えが素晴らしい幻想小説「砂丘の女」、タイムトラベルものでありながらその逆転の仕掛けがこれまた素敵な「名残の雪」あたりが個人的にはおすすめでしょうか。といいつつ、実は本作、捨て作なしの素晴らしい作品集で、SFファン、幻想小説ファンも大滿足の一品といえるでしょう。極上の短編を味わってみたいという御仁にも特におすすめしたい作品です。