因果鉄道惡夢旅。
「推理雜誌」に掲載された本作、作者である李柏青氏が最近自身のブログに公開されたのでさっそく讀んでみました。「推理雑誌」を讀むことが出來ない自分としては、こうして「推理雑誌」の作品がウェブ上に公開されるのは嬉しい限りですよ。
内容の方はというとこれがもう、容赦ない惡魔主義が横溢した短編で、讀了したあとの氣分はかなり鬱。台湾のミステリファンの間では本作が本格か本格でないか、とかいう話もなされているようですけど、そういうのはマッタク無視して自分は本作の仕掛けを愉しむことが出來ました。
物語は、列車の中で男が何だかイヤーな夢を語るところから始まるんですけど、この列車に乗りあわせた人物に、この男が自分の半生を語り出すというのがおおよそのあらすじです。
この男というのが一時は台湾のITバブルで大儲けをしたものの、精神を病んだ妻と病弱な母親を抱えている。で、子供と一緒に列車に乘っては時折母親の見舞いに訪れるという親孝行なところを見せつつ、實は女と浮気をしているというトンデモ野郎。
で、獨り身だと思っていた浮気女には實は旦那がいてこのよろめきも敢えなくご破算、更には歸りの列車で自分がウツラウツラしている間に子供はいなくなってしまうわ、母親は死んでしまうわ、妻は自殺するわと、IT長者から一轉して人生のドン底に叩き落とされた男の半生が前半部ではジックリと語られるのですけど、本作の仕掛けが明らかにされるのはここからで、この後、彼の話に耳を傾けていた男が、人生のドン底っていったって私に比べりゃあんたはまだいい、なんてかんじで自分がどんな生き地獄を体驗したかを語り出すのだが、……。
本作の仕掛けはこの二人の男の人生が語りの中で意想外な交錯を見せていくところで、IT長者から一轉して地獄巡りをすることなった男の行為が現在の因果を引き起こしたことが明らかにされていく後半は當に鬱。
前半の男の語りで明示されていたいくつかの事柄が、後半に描かれる男の生き樣の中に登場し、最後に男が地獄に突き落とされることになった「眞相」が讀者の前に明らかにされるという趣向です。
前半の物語で呈示される「謎」は、いうなれば列車の中でいなくなってしまった子供は何処に行ったのかというところにある譯ですけども、本作ではこの「事件」にミステリらしい仕掛けを凝らすことはなく、寧ろ二人の人生が語られていく中で、男たちの因果を絡めつつ、子供の失踪の眞相が明らかにされていくところにあるといえるでしょう。
「事件」そのものにトリックが不在であるところから本作を本格ミステリではない、とか推理小説ではない、みたいな意見も當然あるにはあるのでしょうけど、その一篇の作品を本格ミステリとして愉しめるか、というところに興味を置いている自分としては、本作の語りに込められた仕掛けを十分に愉しむことが出來ましたよ。
そしてこの眞相を突きつけられて呆然としてしまう主人公の慟哭によって幕引きとなる非情な構成も、ミステリにおける惡魔主義を信奉する自分としては勿論アリで、こういう作品を本格ミステリではない、という一言で讀まなくなってしまうのは勿體ないんじゃないかなア、と思います。
とはいえ、本作のような作品を、ウブな本格ミステリ讀みに但し書きもつけずにオススメするのも些か躊躇いがあるのもまた事實でありまして、個人的には寧ろこの系統の作品は小酒井不木とか渡辺啓助のような、かつての新青年時代の作家と比較しつつその仕掛けを見ていけばよりその魅力を堪能することが出來ると思うのですが如何でしょう。
……と妙に本格ミステリとか推理小説とかそういうものに言及してしまったのも、ここ最近の台湾ミステリ、所謂本土派の作品投票が行われたことをきっかけに、藍霄氏のサイトの掲示板などで推理小説とは何か、とか、どの作家が推理小説家なのか、みたいな議論が行われたりしているからでありまして。
で、こういう話を皆でやると決まって、推理小説の精神とかミステリに對する愛とか定義とか、そういう話題が出てきてしまうのはもう、日本に限らず台湾でも同じようで。また例によってあの作家は推理小説をこう定義しているとかそういう話になってしまっているところが、容疑者X騒動にウンザリしてしまった自分としては何ともですよ。
個人的には、推理小説とは何か、とかあの作家は推理小説家か、とかいう問いかけ自体がナンセンスに思えますよ。自分のような讀み手からすれば、その作品は本格ミステリとして愉しめるか、というところの方が遥かに重要だったりする譯で、その作品のミステリ史における位置付けなども勿論重要なものであり乍ら、やはり議論をするとなればその作品が持っている仕掛けがどのようなものなのか、とか、その仕掛けをどう愉しめばいいのかというあたりを肴に皆で話を進めていった方が創作を行う上でも、またミステリを讀む上でも遥かに有益だと思うのですけど、やはりこういう意見は少数派なんですかねえ。
この作品は推理小説ではない、とかそういう話ばかりをしていると、「恋愛小説を書こうと思うとミステリーへと逸れてしまい、ミステリーを書いているはずなのに恋愛小説にねじれてい」ってしまうような作風の連城氏の作品を取りこぼしてしまうことになる譯で。
定義を巡る議論のすべてが不毛とはいいませんけど、自分としてはそういうことに時間を費やすのであれば、一篇一篇の作品の仕掛けをいかに愉しむか、またその作品がもっている潛在力をいかに引き出すかというあたりを考えていった方が面白いんじゃないかなア、なんて考えてしまうのでありました。
何だか激しく脱線してしまいましたけど、そういう譯で、本作もその仕掛けはあからさまに本格ミステリしていないとはいえ、前半に描かれていた男の語りの中の伏線が、後半に語られるもう一人の男の半生に繋がっていく仕掛けと構成は本格ミステリとしても愉しむことが出來るかと思います。
これは本格ミステリではない、とか推理小説ではない、と退ける前に、この作品で展開されている語りの交錯を擴張又は發展させることによってどのような仕掛の物語を次に書くことが出來るか、というあたりを考えてみるのも一興でしょう。
ミステリというジャンルから「この作品は……ではない」という一言で作品を捨てていくような内向きのネクラ指向は、「繩張り意識と定義を混同し」た日本の本格理解「派系」作家たちに任せておけばいい譯で、本土化を標榜して台湾ミステリの未來をつくりあげていくのだという志があるのであれば、作品を創る側であれ讀む側であれ、一篇一篇の作品と眞摯に向き合い、その作品の仕掛けを愉しむ方法を模索していくべきだと思いますよ、……なんてボンクラのキワモノマニアらしくない真面目な方向で纏めてしまいましたけど、明日からはまた元に戻します(爆)。