黒銀の怜悧とダンディズム、そして赤の情熱。
天城御大の傑作集第三彈なんですけど、讀了するのに何だカンだいって二日もかかってしまいましたよ。というのも、御大の短篇はいずれも強度な圧縮が行われている故、少しでも氣を緩めて二三行ばかりボーっとしているともう、次には何が起こっているのかサッパリ分からない、ということになってしまう譯でありまして。
いつもと同じように通勤途中のちょっとした空き時間や昼休みに續きを讀んでみるか、なんて軽い氣持ちで始めてしまうともういけない。會話の要所要所に語られる逸話を讀み飛ばしてしまうともう何が起こっているのか物語の流れからは取り殘されてしまうという按排ですから、讀み返すこと二三度、日頃いかに氣を抜いて小説を讀んでいるか、或いは自分の讀解力のなさを思い知るには恰好のテキスト、といえるかもしれません。
何ていいながら自分のボンクラぶりに齒ぎしりをしつつも、一册を纏めて讀み通したあとの充足感には何ものにも得難いものがあるところはやはり貴重。マニアやコレクターにはマストアイテムといえるのではないでしょうか。
収録作は東西の探偵作家からヘタソクといわれた末、幾度の改稿を経たあとついに世に出ることとなった、という曰くつきの、當に幻の表題作「宿命は待つことができる」を第一部とし、第二部には「島崎警部と春の殺人」と題して八編の作品が収められています。
個人的にやはりイチオシしたいのは、語り手を島崎に据えて、何処かほろ苦い大人の味と一人の女の人生の悲哀を際だたせた物語が素晴らしい表題作「宿命は待つことができる」でしょう。物語は島崎が一枚の夫人のポートレートから過去を回想するという趣向で、とある事件の十四年後、島崎が社交夫人となった女性からその眞相を聞く、という話。
宝石泥棒あり、不可解な殺人事件あり、さらにはそこへメリケン諜報員なども交えて展開される物語に、本格の鬼が仕上げたガチガチの本格推理ものという風格は希薄です。寧ろ島崎の目から見たミステリ的な流れに、一人の女性の生涯を重ねていくことによって厚みを持たせた構成が光る上質のミステリというかんじで、逢坂剛や佐々木謙の小説に通じるものがあるのでは、と思ったりするのですが如何でしょう。
ホテルのとある一室で男の死体が転がってい、その上には女が覆い被さっていたというところから、どう考えたってこの女が怪しい、と警察が考えるのも必定。しかしここにはとある宝石盜難事件と、メリケンの諜報機関を交えた謀略が隱されていて、……。
物語は暗躍するメリケン野郎チームと島崎の一騎打ちかと思わせておいて後半、意外な犯人が明らかにされるところが秀逸。ホテルでの殺人事件を推理していく過程でスッカリ行き詰まってしまった島崎が、とあることをきっかけに天啓を得、事件の真相へと到るのですが、ここから物語は大転換、犯人との活劇へと移行するという構成も冴えています。
事件が終わったあとの後日談として、犯人の口から語られる事件の犯行方法、そして社交夫人の悲慘な半生がイッキ語りされるところも物語に厚みを與えています。これがもう少し讀みやすければ逢坂剛みたいで普通の本讀みの方にもお勧めできるんですけどねえ、そのあたりが惜しい。トリックも御大の某傑作短篇を想起させるところといい、マニア的にはニヤニヤと愉しめるものの、最近の小説を讀みなれた御仁にはチと辛いものがあるかもしれません。
長編としては「「密室」傑作選 甦る推理雑誌 5」に収録されていた「圷家殺人事件」よりも見所は多く、活劇的な要素が盛り込まれているところから個人的にはこちらの方が好みでしょうか。
第二部に収録されている短篇の中では「落葉松の林を過ぎて」が印象的。豪腕で知られる女實業家の婆さんが高級ホテルで殺されるんですけど、自分が持ってきたトランクの中で死体となって見つかるという謎がいい。
さらに容疑者としてマークされるのがこの豪腕婆さんの旦那で年下のハンサムボーイなんですけど、彼のアリバイ崩しを絡めてアイコラのヌード写真で脅迫されていたという娘っ子などの登場人物を配置しつつ、込み入った人間關係を繙きながら島崎が謎解きしていくという趣向です。御大のマニアであれば、Rルームの美女の命を受けて島崎が事件の現場に乗りこんでいくというところだけでニヤニヤしてしまうこと請け合いでしょう。
「失われた祕策」は非常に短い乍らも、大戰當事日本がブチあげたとある計畫の顛末を昔語りの手法で展開した佳作。国民党政府との仲をとりなす爲、或る日本人を重慶まで運ぶことになるのですが、その祕策の結末は、……という話。この結果とオチに何とも皮肉が効いていていい味を出しています。
その他は例によって展開を追うのが難しい圧縮構成に、唐突な謎解きを添えた超絶作がズラリと竝びます。「春 南方のローマンス」は、商事会社の爺さんたちがウハウハ笑いながら、南洋のとある地方が某國から独立するのを手伝った顛末を昔語りしているんですけど、樂屋裏でのヒソヒソ話によれば、どうやらこの独立計畫というのは会長の裏切りによって失敗に終わった樣子。まあ、実際はちょっと違うんですけど。
で、このことを恨んでいる異國の地方民は会長の暗殺を画策してスナイパーを派遣するという噂があるから穩やかじゃない。ではこちらもと腕利きと評判の探偵を傭うのですけど、この男というのが到着早々「オレが羽間だ。お前たちの救い主だ。もう少し礼儀正しく出迎えたらどうだ」という痛烈なオレ樣ぶりを発揮。
で、このオレ樣野郎の奇想というのが、暗殺者に狙われている会長と自分の部屋を取り替えておくというシンプルなもの。そうすればバカな殺し屋は自分を狙ってくる譯で、そこは腕力にも自身があるオレ樣が捕まえてやると件の探偵は大見得を切ってみせます。
しかし会長はその翌日に死体となって發見されたというから、オレ樣野郎の面目は丸潰れ。果たして大口探偵は犯人と認定した男に凄まじい拷問をくわえて白状をさせようとするのだが、……。
この事件に對して島崎がRルームの美女に謎解きをしてみせるいう趣向なんですけど、冒頭に流れる爺連中の昔語りの長さに比較すると、島崎の推理は異樣にアッサリ。物足りなく感じながらも、Rルームの美女も出てきたし、オレ樣探偵のキャラは愉しめたしで、まア、よしとするか、……なんてかんじで無理ヤリにでも納得してしまう自分がチと哀しい。
いずれも「春の殺人」という言葉通りに、「春」というモチーフが物語の結構に添えられているところも見所で、それは時に登場人物たちの希望というかたちで語られ、また時には主人公の追憶として淡いを釀しているところなど、日下センセの手になる編緝の巧み技を堪能出來る一册です。三册ある天城一傑作集の中では一番好きかもしれません。