徹頭徹尾オンナ節。輕やかな呪力。
この前讀んだ山田正紀の「翼とざして アリスの国の不思議」の七十年代テイストが妙に懷かしくなってしまったので、未讀で箱の中にしまってあった本作を手にとってみました。
鈴木いづみというと、自分的には超越人間阿部薫の奧さん、という印象しかなかったんですけど、今回本作を讀んでみて吃驚ですよ。何というか徹頭徹尾、獨特のオンナ節を効かせて綴られる物語は、類型的なSF物語のようでいて奧が深く、いかようにも深讀みが出來てしまうところが完全に自分好みでありました。
本作は小説七編、エッセイが四編という構成をとっているのですが、輕やかななかに隱された重い言葉が鮮烈な印象を殘す小説群に比較すると、後半に収録されたエッセイはひたすら過激。「いつだってティータイム」の冒頭、「速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする」に始まる切れ味の鋭い文章の數々はイッキ讀みを試みるにはちょっと疲れますよ本當に。
一方小説の方は、讀みやすい平易な文体が印象的で、殆どは近未來を舞台に据えた物語というところがSF、なんですけど、実際のところはSFの世界を巧みに利用して、自らのオンナ節を謳いあげているところが個性的。その中でも一番のお氣に入りは、冒頭の「女と女の世の中」でしょうか。ボーイ・ミーツ・ガール、ならぬガール・ミーツ・ボーイの物語で、男がフリークス扱いされている女性上位共産主義的な世界でのお話です。
ある日、家のまえで男の子を見てしまった語り手はそのことが気になって仕方がない。一緒に暮らしている姉にそのことを話すのですが、男は生殖の道具でしかありえないこの社会では、男が外をウロウロしていることなどありえない譯で、男というのは皆が皆特殊居住區という動物園だか收容所みたいなところに幽閉されている。
そして彼女の心の中には、男性が収容されている特殊居住區を見學したときの違和感がグングンとふくれあがり、ついに彼女は男の子と話をするのだが、……という話。諦觀とも希望とも微妙に違う、語り手が最後に口にする言葉が非常に印象的。傑作でしょう。
この世界への違和感、というのがいずれの作品にも顕著で、「夜のピクニック」もそんな主題を中心に据えてSF的な物語を展開させた作品です。地球の歴史を調べる為、人間の家族に化けた宇宙人たちの、何処かマヌケな生活を描きつつ、物語は最後に悲劇とも喜劇とも何ともいえない餘韻を持たせた結末を迎えます。
人間を外側から見る役割を宇宙人に据えて、人間そのもののマヌケさを描きつつ、それを演じるもののマヌケさをよりいっそう際だたせるという凝りまくった趣向が素晴らしい作品で、これまた傑作ではないでしょうか。
何十年という長い時の物語を短篇に凝縮さたせ手法が光るのが「ペパーミント・ラブ・ストーリィ」で、こちらはボーイ・ミーツ・ガールながら、作者らしい捻れと妙に斜めに構えた男の人物造型が光る一編です。
天才系の男の子が八歳のとき、二十歳の女に惚れてしまう。以降、物語はこの男の子が老境に到るまで、この女性とのつかず離れずの關係を描いていくというもので、ちょっとおませだった男の子が成長していくにつれ、母親とのねじくれた關係故か、ワルになっていく過程が淡々と描かれていきます。
最初の方は少しはマトモだった母親がその子供に依存する体質故、次第に狂っていくのが何とも痛々しい。何十年という時の流れを淡々と描きつつ、その中に「永遠」と「瞬間」は、おなじものなのだ。長さがない、ということにおいて、……なんていう、はっとするような文章が隱し込まれているので油断がなりません。この作品も、最後の四行が素晴らしい餘韻を殘す作品で、やはり傑作、ですよねえ。
一番普通小説っぽくマトモなのは「あまいお話」で、突然家にやってきたサワダケンジと名乗る男に「いとも簡単に恋いに落ち」てしまったわたしの物語。男は、実は自分、宇宙からやってきて、……と普通オンナの私にカミングアウトするのですが、一方の私はそれに驚くこともなく普通に男と生活を始めてしまう。そして、……というかんじで最後に男の正体がキ印だと暴かれて物語は終わるかと思いきや、突然結婚詐欺師めいた逸話が語られたかと思うと、それが再び語り手のわたしの場面へと回帰します。何とも煮え切らない幕引きを迎えるものの、怪しい宇宙人に「だっこして」とか甘える語り手のわたしが妙に可愛い。
で、本書なのですが、最後に作者の「年譜」が掲載されておりまして、1949年に静岡の伊東市に生まれたところから始まり、市役所を引退して上京してピンク映畫に出演、さらに小説現代新人賞を授賞して、……というかんじで彼女の生い立ちが語られていくのですが、その間に出てくる面子が何とも凄い。唐十郎に緑魔子、眉村卓、天井桟敷にアラーキーですよ。
そして阿部薫の登場となる譯ですが、1974年の「同居中の阿部薫と口論になり、二月九日早朝、左足小指を切断され、ハプニングとして報じられる」という逸話は壯絶。超人男阿部薫がDV男へと変貌してしまった何ともなエピソードな譯ですが、自分的に気になるのは、76年に阿部が精神病院に入院し、その翌年77年に離婚を果たしたあとのことで、特に七十年はほぼ一年おきに何らかの逸話を添えていたこの年譜は、1980年、彼女が三十一歳のときに「鈴木いづみの無差別インタビュー」連載開始、という文章のあと、いきなり1986年に彼女が三十六歳にして首吊り自殺、というところで終わっています。この80年から86年までの六年間に何があったのかが非常に気になるところですよ。
そんな譯で、久しぶりに「木曜日の夜」を取りだして聽いてみたんですけど、これまた壯絶な大傑作。未だ阿部が彼女と出会う前の72年に渋谷プルチネラで収録されたライブである本作は、何処となくもの哀しさを伴った旋律とともに時折ブギブギと繰り出される音が強烈。プログレマニアの自分としては、何のギミックも施していない一音一音の生々しさが寧ろ鮮烈で、個人的には特に「Alto 3」の中盤で哀愁っぽい旋律が次第に雄叫びへと変化していくところがいい。
阿部の音楽と作者の鈴木いづみのSF小説に共通しているものを強いてあげるとすれば、徹頭徹尾七十年代でありながら、普遍性を持っているというところでしょうかねえ。解説で高橋源一郎も触れているんですけど、作者の小説にはそれらしいアイテムがぽんぽん出てくるんですけど、それが近未來を舞台にしている故か、懷かしいというかんじがしないんですよ。
文体にも妙に飾ったところがなくて、阿部の音楽のように生音勝負みたいところが舊さを感じさせないのかもしれません。これがピコピコした電子音楽だったり、耽美に過ぎる文体だったりしたらすぐに陳腐化してしまったのカモ、と思うのですが如何でしょう。
またオンナオンナしているところとか全然雰圍氣は違うんですけど、不思議と倉橋由美子を連想してしまったのは何故でしょう。という譯で、次は「いづみの殘酷メルヘン」あたりを狙ってみたいと思いますよ。