ジャケ帶に「奇才綾辻行人の新境地!」とある通りに、本格ミステリでも、またホラーでもない、――「怪談絵巻」という意匠を纏っての幽ブックスからの新作です。
本格ミステリにアンマリ思い入れのない東氏にしてみれば、綾辻氏の超絶ホラー作「殺人鬼」に対しても、「巧緻に考え拔かれた大仕掛けを用意せずにはいられない本格ミステリ作家特有の業」を見て、怪談物語としての本作ではそんな「業」から解き放たれた綾辻氏を見てみたいという氣持ちも十二分に理解は出來るものの、綾辻氏の手になる本格ミステリも愛する本格ファンとしては、ここは敢えて、天の邪鬼に東氏の期待とは逆の讀み方をしてみたくなってしまいます。
とはいえ、まったく的はずれの「讀み」をド素人がただダラダラと書き連ねても説得力はない譯で、ここはひとつ、怪談といえばやはりこの人、という岡本綺堂の名作「木曽の旅人」を片手に本格ミステリ的な「仕掛け」を愉しむ「讀み」を提案してみたいと思います。
収録作は、「信用のおけない語り手」を据えて、怪異の存在が仕掛けによって見事な反転を見せる「顏」、童話的ともいえる強烈な幻視に語れないものの存在を引き算の美學によって描き出す「丘の向こう」、語り手の周圍を取り卷く不可解な事象に誤導を凝らした技巧が光る「長引く雨」。
異世界に起こった怪死事件にクトゥルーネタも添えた誤導の仕掛けが、怪異を日常へと解体する「惡霊憑き」、痛覺をビンビンに刺激する壯絶ネタに綾辻流グロテスクがハジけまくる「サムザムシ」、恐ろしさの中に輕妙なユーモアも交えてこれまた怪異に添えられたあることが痛快な反転オチを見せる「開けるな」、異世界の見えざるものを語り手の混濁した意識も交えて「描かない」技法が怖さを引き立てる「六山の夜」、「深泥丘魔術団」、「声」の全九編。
岡本綺堂の「木曽の旅人」は、怪談文藝という括りの中ではまず絶對にハズせない名作でしょう。勿論先入觀を持たずにただ綺堂の名文を追っていくだけでも充分に怖いのですけども、その怖さをより引き立てるための技法が素晴らしく、この作品では、子供が怖がっている「あるもの」の正体を「えてもの」という怪物の存在に絡めて誤導してみせるその技法に着目でありまして、これがあるからこそ、語りの恐ろしさが二重にも三重にもなって讀者を直撃してくるという結構です。
怪談の樣式としては欠かせない、敢えてそのものを「語らない」という下地があるからこそ、その誤導が十二分な效果を発揮している譯ですけども、こうした誤導を驅使して讀者を驚かせ、怖がらせる技法は、本作に収録された「怪談絵巻」の中にも健在です。例えば「長引く雨」では、ジトジトとした長雨が幻想的な情景を描き出し、そこへ語り手が病院の中で見聞きした出来事を語ることによって、讀者をある想像へと誤導してみせるという結構です。
四十年前の写真というアイテムに、信用のおけない語り手の記憶の混濁や「あれ」として敢えてそのものを語らないことによって誤導の下地をならしつつ、病理解剖の逸話などがさりげなく描かれていくのですけど、しかしそれらが絶妙な伏線となって最後には雨の中におぞましい幻視的後景を描き出してみせるという技法の巧みさ。
またこの信用のおけない語り手の混濁した記憶を下地に、伏線と誤導を驅使した語りを見せるという結構は「開けるな」も同樣で、ここでは牧野センセの「病の世紀」を彷彿とさせる虫ネタを開陳しながら生理的なおぞましさを描き出した「サムザムシ」と同樣、恐怖の中にも輕妙なユーモアが添えられているところが興味深い。
語り手が掘り出したあるものと惡夢とを最後に連關させる構成の中に、「開けるな」というタイトルにも絡めた反転の仕掛けを凝らしてあるところはやはり綾辻氏、と思わせる巧みさです。
この恐怖の中のユーモア、という点では、やはり個人的には楳図漫画との共通項を探りたくなってしまうのですけど、ウメカニズム的視点から讀みとくとその面白さをよりいっそう堪能できるのではないか、という一編が「顔」。チチチチ……と奇妙な声で鳴く怪異の正体が最後に意想外なかたちで明かされるという結構そのものに反転を凝らしてあるところにも注目ながら、個人的にはこの怪異に「外」と「内」という視点から色々と意味を探ってみたくなってしまいます。
その恐怖が「外」からやってくるのか、「内」にあるのか、という点から、「殺人鬼」を楳図センセの「へびおばさん」に、そして本作の「顏」を例えば「神の左手、悪魔の右手」の強烈すぎる一編「錆びたハサミ」と比較してみるといった「讀み」も、楳図―綾辻というラインで恐怖を愉しんでいるファンとしてはアリでしょう。
またそういった「外」「内」という見方から、本作の「顏」と「開けるな」と並列してみると、語り手が夜ごとに魘される惡夢と怪異の正体を自らの内部と外側を連關することによって明らかにする「開けるな」の企図がよりはっきりとした輪郭を持ってくるような気がするのですが如何でしょう。そして「開けるな」というタイトルに絡めて、果たしてあの扉の向こうにあるべき闇はいったい何處に通じているのか、――というこの物語の中で敢えて語られていないものを「錆びたハサミ」のモチーフからイメージするとよりいっそう愉しめるのではないでしょうか、――ってこのあたりは楳図ファン限定、ということで(爆)。
「顏」が楳図センセだったら、「丘の向こう」で描かれる強烈な幻視は日野日出志で、毒々しい色の煙を吐き出して轟音とともにこちらに向かってくる「物凄いもの」と、それを見ながら狂ったように歓聲を挙げるものたち、さらにはその後に襲いくるおぞましき光景の激しさ、――詩的でありながら何處か童話的にも感じられるそれは將に日野ワールドを彷彿とさせます。
その音と色彩によってそのものの輪郭を活写しながらも、「物凄いもの」と形容し、信用のおけない語り手のイメージに託して「描かない」という怪談文藝的な引き算の技法がここでも效果をあげていて、後半の三編、――特に「声」ではそのあたりのうまさが光ります。
「語らない」という引き算の技法が驅使された怪談物語ゆえ、このあたりがすべてを映画的にハッキリと描き出す現代ホラーに慣れている讀者に果たしてどのように受け止められるのか、というあたりがチと不安ながら、綾辻氏の作品を追いかけているファンから見ると、確かに怪談という意匠を意識した引き算が十二分に活かされた中にも、シッカリと「仕掛け」が凝らされている作品ばかりでありますから、ファンであれば文句なしに愉しめるのではないでしょうか。
「本格ミステリ作家特有の業」から解き放たれた綾辻氏の新しい風格をアピールする、という東氏の狙いとはまったく相反する「讀み」を行っても愉しめるし、その点では本格ミステリでもホラーでもない、「怪談」という意匠を纏っているとはいえノープロブレム、個人的には、怪談の中にも「仕掛け」を探してしまうような因果な本格ミステリファン(でも怪談も好き)というような奇特な讀者にオススメしたいと思います。