エロスの暗黒三角形。
短篇に比較すると仕掛けの技巧は薄味ながら、今回の再讀では、主人公の娘っ子が疑心暗鬼の煉獄に落ち込んでいく心理小説として愉しむことが出來ました。
ヒロインは結婚だけは濟ませたものの旦那の海外赴任でハネムーンもおあずけ、ようやく二年後に歸國した夫とともに伊豆の島を訪れます。しかし旦那の叔父が奇妙な溺死を遂げたのと酷似した恰好で、彼女の親友も御臨終、それからというもの、旦那はどうにも怪しい行動を起こしていて、……という話。
このヒロインというのが、どうにも女らしさを感じさせないところがアレながら、物語が彼女の一人稱で綴られているところが本作のミソ。脇キャラで前半にチョロリと出ていた親友が溺死してもノンシャランとしていたのが、旦那が浮氣しているらしいと分かるやスッカリ取り亂してしまうところも秀逸で、浮氣相手と思しき人物が學生時代からの大ファンだった歌詠みの女性であったことで彼女の氣持は乱れまくります。
旦那の叔父というのがこの歌詠みの女性の夫にあたり、どうやら彼は叔父の溺死事件も彼女の仕業ではないかと疑っている樣子。しかしその一方で旦那は彼女と浮氣しているようでもあり、旦那の言葉を信じていいのか、それともかねてよりの憧れだった歌詠みの女を信じるべきなのか、親友の死を起點として彼女の内心は旦那と歌詠みの女の双方を激しく振幅しながら物語は進みます。
登場人物の少ない簡潔な構造から、犯人は旦那かそれとも歌詠みの女のいずれかしかありえない譯で、本作の仕掛けをミスディレクションの視點から見た場合、それは彼女の心理の振幅に寄り添う形でしか効果は期待出來ません。このあたりが弱いといえば弱いものの、しかし本格というよりは極上の心理小説として見た場合その効果は劇的で、中盤以降、旦那の浮氣の疑惑が浮上してくるや歌詠みの女の魔性がヒロインの心を搖さぶっていく展開が相當にスリリング。
最初の肉体の結合は、それを記念するような方法で行いたい、そのためには、ぼくは黴を払い落として生まれたときのように、なっていなければならない、と富一郎さんはいっていたそうだ。……(略)
「だから、あたしたちの最初のまぐわいは、速水さんの納屋の二階の、吊りランプの下で行われたのよ」と、秘女さんは目のやり場に困るようなことを、ずばりという。……(略)
「だけど、どうなのかしら。男ってみんな、あんたことをするものなの。富一郎はあの行為をしながら、さかんにしゃべりまくるのよ。あなたの場合はどうだった未知さん……」
私はさすがに顔がほてり、かすかに首を横に振っただけだった。
結婚してからすぐに旦那は海外赴任してしまったものですから、當然「そちら」の方もアンマリしていなかったことは容易に察せられるわけで、旦那は島にやってきても讀書と翻訳と俄探偵ゴッコに大夢中の樣子でありますから、あからさまな記述こそないものの、「そちら」の方ではヒロインもかなりの不滿が募っている。
で、この魔性女に男女のエロスの深奧を叩き込まれたヒロインは、旦那と親友の仲を疑ったり、魔性女との密會を妄想したりともう大變。完全に魔性女に操られて、擧げ句に當の旦那を犯人扱いしてしまいます。
またこの魔性女は、ヒロインが高校時代から憧れていた歌詠みであるところもミソで、ヒロインの娘っ子にしてみれば、彼女の言動というのはもう、神の言葉にも等しい譯です。また結婚してから一緒に暮らしていた期間も短く、實をいえばヒロインの彼女も旦那のことはよく分からない。
特にエロい話題に關してはまったくのウブといってもいいくらいで、ツンと取り澄ました文學少女の一人稱ゆえ、夜の生活の不滿をそれほどあからさまに綴ってはいないものの、それでも旦那が普通の男に比較すれば淡泊に過ぎるというボヤきが文章の端々に感じられ、これが後半、ヒロインが疑心に陷る伏線となっているところも秀逸です。
しかし旦那の言葉よりもプロ歌人の言葉をアッサリと信じてしまうヒロインをバカにすることも出來なくて、実際問題、女の扱いにうまくない淡泊な旦那と、歌によって人間の内心を知り盡くしているかに思える歌人の女性の二人を比較すれば、戀愛という點に關しては、歌詠みの女の方が明らかにプロ。
さらに自分が學生時代からずっとずっと憧れてきた人物の言葉とあれば、それを疑うことなどマッタク考えられないというのも必然で、これは例えば、第五屆人狼城推理文學奨の受賞作は「誘殺」ではなく(というかこれは本のタイトルであって、作品の名前ではない) 寵物先生の「犯罪紅線」であって、人狼城推理文學奨の名前もアノ作品に「ちなんで創設」されたという譯ではなく、台湾推理俱樂部のサイトの名前「人狼城の恐怖」からとられたものに過ぎず、また最近はこの賞の名前自体に問題アリという指摘もあって來年からはその名前も台湾推理作家協会賞に變更される予定で、この賞を主宰している台湾推理俱樂部も「台湾大学のミステリー・サークルのような」ものでは決してなく、これも近いうちに台湾推理作家協会という團體に発展する予定であり、――なんてことをボンクラのド素人がプチブログで指摘しようとも、プロ作家が自分のサイトで誤った情報をさらりと書いてしまえば、その作家の大ファンなどは「夏帆ちゃん夏帆ちゃん!先生ッ、お久しぶりです。台湾では先生の作品の名前に由来する賞が創設されているそうですね。凄すぎますッ!こうなると世界規模で触発を与えている先生の作品、例えば「宇宙捜査艦「ギガンテス」」がハリウッドで映画化される日もそう遠くはないのではないでしょうか。頑張ってください。期待してますッ。あ、またまた申し遲れました。ボク、邪無です!」なんてことになってしまう譯で。
人狼城推理文學奨の名前が變更されることに關していえば、おそらく件の「X騒動」がいくばくかの「触発を与え」た結果ではないかなア、なんてゲスの勘ぐりをしてしまうのですけど、まアこのあたりは本作の内容とはマッタク關係ないのでこの話題はこれくらいにしておきます。
エロスの暗黒を絡めながら、一人の女性の心の搖らぎをミステリに託して描ききった本作、切れ味鋭い短篇とはまた違った魅力を堪能できる佳作でしょう。