付箋をつけておいたところに着目しながらざっと再讀してみたのですけど、うーん……、クズミスマニアとしては非常に悔しいのですけど、本作、フツーのミステリファンから完全にイロモノとして退けられてしまうのは非常に勿体ない作品のような気がしてきました。
なので、以下、ややネタバレ氣味にもう少し本作の本格ミステリの仕掛けとその魅力について述べてみたいと思うので、未讀の方はスルーしていただければと、――とはいいつつ、本當は、本格ミステリ讀みの未讀の方にこそ目を通していただきたいのですけど、本格ミステリとはあくまで何らの先入観もなく讀むものとお考えの方のみ、以下の文章は読み飛ばしていただければと思います。
本作の「外觀」は、何しろパンダの着ぐるみ集團が大阪のデパートを占據して、その要求内容が文部省を廃止すべしというフザケたものであり、さらにはダメ押しとばかりにその作者が「殺人ピエロ」の水田美意子でありますから、讀者としても完全にイロモノとしてクダらないサスペンスもの、という先入観を持ってしまうのも当然で、本作を本格ミステリ「として」讀む方はまずいないものと思われます。
しかし事件の眞相が判明してから最初に戻ってみると、作者が物語のはじめに添えている「アン・ミェンに とってもアイム・ソーリー」という言葉の真意が理解できる構成に注目でありまして、疑い深い讀者であれば、初讀時にも、ここに添えられている「アン・ミェン」という人物は何者なのか、というところに氣がついて、本作を「アン・ミェンという謎の人物を巡る物語」として讀みはじめることも可能かもしれません。そしてそうした「讀み」を試みることによって始めて、作者が本作の推理の過程で明らかにしてみせたこの物語の事件の背後、――そこに凝らされたた犯人の思いと、ある人物の哀切を理解できるような気がするのですが如何でしょう。
例えば最後の犯人の告白の中で、この人物は警察の推理の誤りを指摘してみせる部分があるのですけど(265p 後半)、ここには連城ミステリを彷彿とさせる構図の顛倒が見られます。事件の構図の中心いたと思われていた人物が実はある目的のために「選ばれた」に過ぎないという顛倒は、今回のデパート・ジャックを実行する引き金となったとある事柄にも凝らされており、本來の動機が、犯人に誘拐された人物たちから描かれたパートと警察のパートという二つの部分とはまったく關係がないふうに挿入されている逸話の中にそれとなく仄めかされているとはいえ、しかし現実に「実行」されたデパート・ジャックという事件の樣態に目を凝らせば、本當の事件の引き金は將にこの「アン・ミェン」を巡るある悲しい出来事にあったことが犯人の告白によって明らかにされます。
本作を「アン・ミェンという謎の人物を巡る物語」として讀んだとしても、上に述べた通り、その眞相はやや唐突なかたちで犯人の告白によって明らかにされるという結構ゆえ、何よりもフェアプレイを信條とする原理主義的視點から見ればレベルの低い本格という評価になってしまうかと推察されるものの、本作の場合、不思議とそのあたりは氣にならず、寧ろ物語の一番最初に添えられていたこの謎めいた言葉の真意が一氣に明らかにされるという構造に惹かれました。
警察のパートにおいて次の爆発を推理するプロセスが、誘拐された人物たちのパートの描写とはマッタク乖離しているという結構には確かにイライラさせられたものの、最後に明らかにされた犯人の心理トリックに、安吾の名作を想起する本格マニアがいても不思議ではないと思うし、そうした事件の構図の細部に着目すれば、着ぐるみパンダという脱力の設定に凝らされた仕掛けもなかなか秀逸なミスディレクションであることも理解出來、さらにはエレベータにこだわりまくった警察のパートにおいても、後半になって明らかにされる犯人の消失という、ミステリとしても定番の謎が立ち現れる構成の伏線と考えることもまた可能で、――という具合に、デパート・ジャックという脱力な設定に隠された作者の仕掛けは、犯人の真の動機に始まり、犯人の消失という事件の樣態、さらにはデパート・ジャックという事件を表として、その裏に隠されていたある人物のドラマを明らかにするという結構にまで及んでいる譯で、サスペンス小説に擬態した本格ミステリとしても非常にうまく纏まっているように感じられます。
デパート・ジャックにパンダの着ぐるみという「表」にばかり目がいってしまって、どうにも讀むのを躊躇ってはしまうものの、個人的には後半に開陳される本格ミステリとしての結構と、作者が物語の冒頭に凝らしてみせた「アン・ミェンという謎の人物を巡る物語」には純粹に驚いてしまった自分としては、本作、このミスファンは勿論のこと、本格ミステリ讀みにこそ手にとってもらいたいな、と感じた次第です。
確かに本作を本屋で見た時には、丁度道尾秀介の「カラスの親指」の隣に平積みになっていて、「コン畜生、こんなクズミスを道尾秀介の隣に置きやがって」なんて感じたものの、今となっては平積みも納得、というか、――おそらく宝島社も本屋も本作をイロモノとして売り出すつもりであるとは推察されるものの、個人的には「アン・ミェンという謎の人物を巡る物語」として讀んで始めて立ち現れる哀切の風格と、脱力のサスペンスという表層を見事な誤導に利用した本格ミステリとしても秀逸なその結構をもっとアピールしてもらいたいという気がします、……とこれだけ書いても恐らくはイロモノとして讀まれてしまうのだろうなという思いも強く(苦笑)、自分としてはプロの評論家が本作をどういうフウに取り上げてみせるのか興味津々、それでもやはり恐らく本格界隈ではスルーされてしまうのかと思うとチと寂しい気持ちもしてしまうのでありました。