今朝の朝刊を見て、のけぞってしまいました。
との見出し(このリンク先は毎日新聞を引用したYahoo!のものですけど、自分は産經で見ました)。
という譯で予定を変更して、今日は彼女の作品を取り上げてみたいと思います。何か本好きPeopleのトラックバックリストを見ても、まだ誰も書いていないみたいだし、……やはり倉橋由美子といってもよほどのマニアでないと見向きもされないような作家なのでありましょうか。ちょっと哀しいですよ。
しかし倉橋由美子の代表作というと何になるんでしょう。有名なのは「 大人のための残酷童話」や「スミヤキストQの冒険」或いは「アマノン国往還記」あたりでしょうか。またシルヴァスタインの「ぼくを探しに」の翻訳者として、名前を聞いたことがあるひともいるでしょう。
しかしミステリ好きの自分としてはやはり、ここで「聖少女」を取り上げてみたい譯ですよ。
倉橋由美子の作品は、大学時代に古本屋を探しまわって、新潮文庫版はほとんど手に入れたのですけど、やはり「聖少女」を讀んだ時の衝撃は忘れがたいものがあります。
さて、そのあらすじを新潮文庫版から引用すると、
自動車事故で記憶喪失におちいった未紀のノートにしるされた過去——「パパ」を異性として恋した少女の崇高なまでに妖しい禁じられた愛の陶酔を強烈なイメージで描いて、特異な小説世界をくりひろげる。未紀と青年Kとの愛、未紀と「パパ」との愛、Kとその姉Lとの愛、三つの愛の錯綜した展開のなかに、不可能な愛である近親相姦を、選ばれた愛に化することを試みた書き下ろし作品。
物語の狂言廻しはこのあらすじで書かれている青年Kである「ぼく」で、彼が未紀と知り合った數年前のいきさつを語ることから始まります。
そして彼女は数箇月前、自動車事故によって母親を失い、自分は記憶喪失となってしまう。彼女は記憶を取り戻さないまま退院し、暫くしてから彼女は「ぼく」に彼女が記憶を喪失する前に綴っていたノートを郵送してくるのですが、そこに書かれていたのは「パパ」と彼女の關係についてだった、……というようなかんじで物語は進みます。
彼女のノートに書かれてあることは本當のことなのか、そして「パパ」とは何者なのか(彼女の本當の父親なのか?)、そして彼女が記憶を取り戻さない原因は何なのか、という謎を巡って、彼女の手記、そして「ぼく」の過去と、姉との近親相姦などを織り交ぜながら、最後にある「仕掛け」があきらかにされます。
この物語は、小説という形式に意識的なことが特徴でしょう。「作家」という人物が登場して、彼女の手記が果たして事実を綴ったものなのかどうかということが議論されたりもします。
また「ぼく」じしんもこの手記じたいが小説であることをほのめかしていたりするので、この物語の外にいる讀者としては何が事実なのか手探りで進むしかありません。
さらにいえば「ぼく」などは昔の出來事を思い出しつつこの「手記」であり「小説」でもある物語を書いているわけで、これは同時に記憶を巡る物語でもあります。
このように、小説という構造を自覚しながら書かれた物語という點でも、本作は四十年以上前に書かれた小説とはいえ、多分に今日的な作品であるといえるでしょう。
ミステリ的、幻想小説的、それでいて純文學でもあるし、……こういう小説、いまの若い人だったらどういう人が興味を示してくれるのでしょうねえ。ちょっと考えてしまいます。
中井英夫や三島由紀夫とも文体が釀し出す風格はかなり違うし、西歐の退廢的な雰圍氣があるあたり、澁澤龍彦的でもあります。
それでもこういう構成の複雑さや純文學的な小難しい部分を除いて本作を再讀してみると、スノッブな登場人物たち、メルロ・ポンティ、ブラームス、ダリ、バルテュス、ジャンヌ・モローといった固有名詞を多用するところ、内省的な独白が多いところなどなど、……これって、何となく佐藤友哉に似てないような氣がしないでもないような。佐藤ファンにおすすめ、といっても果たして讀んでくれる人がいるかどうか。
また固有名詞といえば、何しろ四十年も前の小説ですから、まあ時代を感じさせるものが多いのもまた事実なんですけど、未紀が好きな俳優にジェラール・フィリップを挙げさせているあたり、流石だなあ、と思いました。
ジェームス・ディーンじゃなくて、ジェラール・フィリップ。倉橋由美子は流石分かっていらっしゃる、と思った次第。
おそらく新潮文庫のいくつかは再版されること確實でしょうから、その時には是非とも本作を手にとっていただき、この前衞的にして官能的な倉橋由美子の世界を堪能していただきたいと思います。合掌。