安部公房の傑作名作は數あれど、本作は探偵が依頼を受けて失踪人を搜すというハードボイルド小説の結構を持ちながら、その実まったく違ったところに着地してしまうという點から、アンチミステリとしても讀むことが出來るのではないかと思うのですが如何。
本作は贊否兩論ありまして、この執拗な情景描写と主人公の独白が冗長に過ぎるという意見もあれば、それがもたらす迷宮感が何ともいえないという評價もあったりして、人それぞれに感じるところが異なるようです。
自分はというと、勿論この偏執的な描写と主人公の独白があるからこそ、このアンチミステリ的な仕掛けが活きてくると思うし、事実作者のこの試みは素晴らしく成功していると思う譯です。さて、アンチミステリというキーワード、そしてごくごくありきたりの町の描写がいつの間にか幻想的な風景へと轉じてしまうという風格から、ミステリマニアが思い浮かべる物語といえば、……って勿体ぶるまでもありませんか。そう、中井英夫の大大大大大傑作「虚無への供物」であります。
兩作の大きな違いといえば、「虚無への供物」が薔薇や色彩のモチーフなど、意識的に幻想小説的な意匠を纏っているのに對して、本作ではそういった幻想小説では定番のアイテムは何も用意されていないというところでしょうか。
また「虚無への供物」は東京の街という記銘性が物語のなかでも重要な意味を帶びているのですが、本作の場合、それはまさにどの地図にもありそうな、何処ともしれない町が舞台になっています。つまり無記銘であることが「燃えつきた地図」という暗示的なタイトルとともに大きな意味を持っているところが異なる譯です。
しかし物語の主題をなすところは兩作ともかなり近く、ミステリとして見た場合の、「謎」、「探偵」、「事件」といったものに對する立ち位置が非常に近いのですよ。
本作ではまず失踪人がいる、という「事実」が前提となって、その後に失踪した夫の捜索を依頼する妻や義弟の存在があり、その先に「探偵」という装置が設定されています。ミステリとしてはごくごくありきたりのこの舞台装置が、事件の渦中に飛び込んでいった「探偵」の目を通して見られたとき、「事実」や「謎」といった前提が激しく搖らいでいき、最後には「探偵」という存在が虚構の「事件」や「謎」に取り込まれて物語が集束するというこの壯絶な終わり方。
果たして「事件」や「謎」はこの虚構の物語のなかに本當に存在したのか。そしてこの存在さえも曖昧な「事件」や「謎」の前に「探偵」という装置はどのような役割を果たしえたのか。謎の解明という「事実」を必要としたからこそ、失踪人という謎がつくられ、探偵が召喚されたのではないかという逆説、……といったミステリの定石、前提条件、舞台装置といった諸々を激しく搖さぶる問題提起がなされているところが本作の最大の特徴です。
物語は冒頭、ありふれた團地の描写から始まります。探偵であるぼくに失踪人の依頼を行った妻がこの團地に住んでいるのですが、失踪した夫について樣々な質問を行う主人公にこの妻は曖昧な答えしか返すことが出來ません。
探偵は失踪人が殘していったマッチ箱を頼りに調査を開始するのですが、失踪人の妻の弟、失踪人が勤めていた会社の部下など、とにかく怪しげな人間が事件の全貌をあやふやにしていながら物語は混沌とした樣相を呈していきます。
マッチ箱に書かれた電話番號が本當の手掛かりではなく、頭の色が違うマッチそのものに意味があったのではないか、……物證ひとつから繰り出される樣々な意味、そして解釈。それと同じように探偵の調査のなかで引き起こされる樣々な事象、事件もまた探偵の前には多元的な解釈が可能であり、事実というものに對する立ち位置の曖昧さがここで浮き彫りにされていきます。
失踪人が殘していった偽の手掛かり、或いは失踪人という「事件」を操っている存在。やがて解釈の奔流が「事件」の存在そのものを打ち消していくかのような後半の展開は普通のミステリの風合いとは大きく異なる不思議な酩酊感を催させます。ここがいい。
ミステリとしては幻想ミステリ、アンチミステリに近いといえるのでしょうが、この作品を語るのによく引き合いに出される小説としては他にオースターのニューヨーク三部作が挙げられます。或いはこれに「リヴァイアサン」を加えてもいい。ミステリの結構を持ちながら、その前提が搖らいでいく展開は當に同じで、オースターのこの作品群がお氣に入りの方であれば絶對に本作も愉しめると思います、というか、「ニューヨーク三部作」讀んでいて本作をまだ手に取ったことがないって人、いるんでしょうかねえ。
本當は藤岡真の「ギブソン」を取り上げた時に、本作を取り上げようと思ったのですけど、いかんせん自分が持っている新潮文庫版は安部真知の手になる表紙繪がボロボロになっておりまして、スキャンも出來ずどうしたものかなあと後回しにしていたんですけど、本屋を回ってもすでに安部公房の文庫じたい置いていないという有樣でして、けしからんというか何というか。ようやっと昨日古本屋に転がっていたのをゲットして、今日讀み返したという次第です。
安部公房は、初期の哲學小説的な難解な作品、そして不條理と幻想が物語全体に横溢しているもの、人間存在の根本を問うかのごときSF小説などなど、とにかく樣々な顏を持っている作家です。しかしミステリ好きにまずおすすめ出來るとしたら本作で決まりでしょう。