殊能氏の物語としてはいつになくありきたりで、普通の小説なので吃驚してしまいました。
子どもの王樣という、子供にとっては異界の存在を容易に受け入れてしまうという了解事項を設定に配した構成は、前回紹介した「神樣ゲーム」や「くらのかみ」とと同じ乍ら、あちらはその設定を存分に使いきっていたのに對して、こちらは日常世界、ごくごく普通の世界を語る物語に纏めてしまっているのですよ。勿體ない。
ミステリーランドというのはその作者の個性が出るシリーズと思っているのですが、これは本當に意外でした。殊能氏であれば、こちらが及びもつかないような設定で奇天烈な物語を披露してくれるのかと思いきや、実際は母子家庭や家庭内暴力という明確なテーマを設定して物語に取り組んでいるのです。もっといってしまえば殊能氏の物語に特有の遊びが、ない。このあたりが不滿といえば不滿でしょうか。
もっともそうはいい乍ら、どんな奇天烈な物語も手堅く纏めてしまう氏のことですから、本作も破綻のない小説に仕上がっています。そこのところはいいのですが、いかんせん本作は殊能氏の小説ですからねえ、……。
語り手はショウタという少年で、物語の鍵となっているのは彼の友達のトモヤ。トモヤは空想癖のある男の子で、團地に住む惡い魔女と良い魔女の話や、子供を召使いとしてこき使う恐ろしい子どもの王樣を話をショウタたちにしてくれます。
ショウタはそんなトモヤの話は單なる空想だと思っているのですが、ある日、ショウタが話していた子どもの王樣とそっくりな男が團地にいるのを目撃して、……というお話。
しかしこの物語の時代設定っていつなんでしょうか?自分にはどうも平成のお話には感じられないのです。何というか、ヒーローもののテレビ番組は勿論今でもあるのですけど、それが何処となく自分が子供のころに見ていた昔ふうのものに思えるというのがひとつ、そしてこの物語の舞台となっている團地も(マンションではない)、何処となく高度経済成長時代、つまり昭和の「あの時代」の空気を濃厚に感じさせるんですよねえ。
もっとも作者の殊能氏もあとがきで自分の子供時代を回想していたので、もしかしたら氏は自分の子供時代の記憶だけをたよりにショウタやトモヤ、そしてこの小説の舞台を描き出したのかもしれません。
登場人物では、ショウタと母親のやりとりがほほえましい。酒飲んで醉っぱらってしまうようなダメ母なんですけど、自分の子供に對
して友達のように接しようとする彼女が何となく微笑えましいです。
このショウタと母親の二人に比較して、トモヤの家庭はとにかく痛ましい。子どもの王樣の眞相も蓋を開けてみれば何のことない、このテの物語にはよくあるもので、こんなオチにしてしまうあたりも、本作が殊能氏らしくないと思わせてしまう一因でしょうか。
結局子どもの王樣はショウタの氣転によってアレしてしまうのですけど、そのあとのトモヤのショウタに對する複雜な思いはよく畫けているなと思いました。
何かこちらのレビューもごくごくありきたりのものになってしまったのですけども、これは單に本作が普通のよく出來たお話であるからで、ミステリーランドの一册として見れば手堅く纏めた作品乍ら、殊能氏の筆歴から見れば本作はどうなんでしょう。もっともっとハジけてくれた方が讀者の期待に添えた作品に仕上がったと思うのですが、そのあたりが殘念といえば殘念です。