何故いまこんなレトロな作品を、と皆さんが訝るのも無理はないんですけども、まあそこはそれ、昨日讀了した「あの作品」がアレだったので、ここはひとつ、純文學作家が眞っ當な本格ミステリを書くことは出來ないのか、ということについて考えてみたいと思った次第で……。
とりあえず坂口安吾を知らない若い世代の人に簡單に説明しておきますと、生まれは明治三十九年、もう百年近く前の話です。代表作は小説ではやはり「桜の森の満開の下」、「白痴」でしょう。そしてもうひとつ評論というかエッセイで「堕落論」を挙げておけば充分ですかね。
で、ミステリ作家、というかここでは敢えて推理小説家と呼んだ方が雰圍氣をうまく伝えられるかもしれませんが、自分たちのフィールドである推理小説ではやはり本作が頭ひとつ圖拔けていて代表作といえるでしょう。そのほかにも「能面の秘密」などがあるものの、まあ、本作と短篇の名作「アンゴウ」あたりをおさえておけば良いでしょう。
安吾がクリスティ好きであることは、本作でも登場人物のひとりの言葉をかりて述べられています。安吾の探偵小説好きはかなり堂に入っていて、探偵小説推理小説に言及した評論も多く、そのほとんどは冬樹社からリリースされた「坂口安吾評論全集2 文學思想篇 II」で讀めるのですが、いまでは入手も難しいでしょうか、これ。困ったものです。
そんな譯で、推理小説好きを世間に公言していた純文學作家が書いた推理小説の代表作が本作であります。純文學作家の作品ということで、やたらと地の文が多く、細やかな人間心理の描写が際だった作品かと思えばさにあらず、これがとにかく犯人當てに注力した至極眞っ當な推理小説なんですよ。
時代は終戦間もない或る夏のこと、詩人の家に集まった文壇歌壇の奇天烈な男女たち。作家、文学者、詩人、画家、劇作家と業界の変人達のサロン的な會話もかなりハジけていて、とにかくまともな人間がひとりもいません。そんななかで一人二人と立て續けに殺人事件が起こる、という話です。衒學的なところなどカケラもなく、人間心理云々に關しても、物語じたいが登場人物のひとりの一人稱で語られているため、主觀的なものに過ぎません。
色戀癡情の錯綜極まる人間關係をクダクダと説明するはじめの方は些か退屈なのですが、一同が屋敷に到着してからはとにかく新本格のミステリのごとく立て續けに人が殺されていくものですから、探偵役の人間が事件の背後にある手掛かりを辿って日本全国を縦断するなんてこともありません。
本作の探偵は安吾の推理小説ではお馴染みの巨勢博士で、結局探偵が連續殺人を制止することが出來ない、というのもこの時代の御約束。巨勢博士は「二十九という若僧」なのですが、語り手の私にいわせると曰わく、
全くどうも奴の観察の確実さ、人間心理のニュアンスを微細に突きとめ嗅ぎ分けること、恐ろしい時がある。彼にかかると、犯罪をめぐる人間心理がハッキリまぎれもない姿をとって描きだされてしまう。
……我々文学者にとっては人間は不可欠なもの、人間の心理の迷路は永遠に無限の錯雜に終わるべきもので、だから文学も在りうるのだが、彼にとっては人間の心は常にハッキリ割り切られる。
「それくらい人間が分かりながら、君は叉、どうしてああも小説がヘタクソなんだろうな」と冷やかしてやると、
「アッハッハ、小説がヘタクソだから、犯罪が分かるんでさァ」
こいつはシャレやご謙遜ではないだろう。この言葉も亦真理を射拔いた卓説で、彼の人間観察は犯罪真理という低い線で停止して、その線から先の無限の迷路にさまようことがないように、組み立てられている。そういうことが天才なのである。
ちょっと引用が長かったんですけど、この文章に本作の推理小説としての風格がすべて語られていると思うのですよ。乃ち、安吾にとってのミステリとは大仰な物理トリックではなく、またその魅力はオカルトや幻想主義的な衒學でもなく、ただひとつ人間の心理の陥穽を突いたものである、ということです。
本作で仕掛けられた大きな心理トリックはまさにそれに當てはまるもので、探偵である巨勢博士は犯人が殘した唯一の「心理上の足跡」をもとに、犯人を推理し、指摘します。
自分がこの作品を讀んだのは高校のときだったのですが、横溝正史のような怪奇趣味もなく、奇人變人ばかりが登場するものの、妙にあっさりとした作風に當事は正直讀み進めるのは辛かったのですが、最後に犯人が指摘され、その「心理上の足跡」があきらかにされた時には本當に吃驚しました。嗚呼、こういうやりかたもあるんだなあと。
いうなれば本作は語り手の私もいっているような、文學的なものはばっさりと捨てて、純粋にゲームとしての謎解きに挑んだ作品といえるのではないでしょうか。その意味では純文學の名作「桜の森の満開の下」の下の安吾と、本作の安吾は同じ線上には存在しないのかもしれません。作者が本作でやろうとしたことは文學ではなく、謎解きを軸に据えた推理小説なのですから。
それでもこの一作をして、ミステリとして面白い(小説として面白い、というのとも微妙に、違う)、そしてミステリ的な驚きを見せてくれるものを純文學作家は畫くことが出來るといってしまっても良いのではないか、と考えたりする譯です。
それと同時に、本格ミステリや推理小説というのは作家の資質もあるのかなあ、と考えたりもしました。つまり純粋に技術論だけで片づけられるものではないのかもしれないということです。
幻想ミステリとかホラーの味のあるミステリなどは純文學作家でも達成出來る領域だと思うんですけど、謎解きが小説のすべてに奉仕しているような、不純物のない、ある意味非常にコアなミステリというのもまた、技術的なものだけで達成出來そうな氣がするものの、実は資質が大いに關係していて、誰もが書けるではないのではないかあと。
本作はいくつかの出版社からリリースされているのですが、ここで取り上げたのは自分が持っている角川文庫版。ジャケ写が映畫のワンシーン(なんですかね、これ)というところがちょっとレアものっぽい雰圍氣です。
しかし小説のなかでは、この寫眞のように白衣を纏った醫者がニタニタしながら寝台に横たわる女にゾンゲリアするようなシーンはありません。惡しからず。
よく見ると、このジャケ寫、胸元がシッカリはだけていて乳首がちょっと見えているんですけど、大丈夫だったんでしょうか。この白衣の男は恐らく海老塚医師で、演じているのは松橋登でしょうか。女性の方はちょっと分かりません。
しかしおすすめはこの角川文庫ではなく、創元推理から出ている「日本探偵小説全集 10 坂口安吾集」が良いと思います。連載當事のイラストもシッカリ掲載されていて、なおかつ「アンゴウ」が収録されているのがいい。
……という譯で、結局とりとめのない獨り言みたいなかんじになってしまいました。
まあ、「あの作品」を自分が眞底愉しめなかったのには、「あの作品」がリスペクトしたミステリ作品にも原因があると思ったりするのですが、……まあ、取り敢えず他の人が「あの作品」をレビューしたものに目を通してみてからまた再讀して、考えてみたいと思います。