本作、皆さん怖くてまだ讀んでいないと思うんですけど、取り敢えず人柱になってパチもんがどうかの檢証をしてみました。
ただこの本、非常にレビューしにくい本なんですよねえ。色々な意味で。
と同時に樣々な問題定義を孕んでいまして、これについてはミステリを愛し、今後のミステリの発展を願ってやまない者として、同時に小島正樹という才能ある新人の今後の活躍を願ってやまない一讀者として、本作を色々な角度から檢証してみなければなりません。嗚呼、何かこのレビュー、凄く長くなりそうですよ。ちょっと憂鬱です……。
まずはジャケ帶の煽り文句から見ていきましょうか。
独自の「本格ミステリー論」を提唱する島田莊司と気鋭の継承者小島正樹
二人のコラボレートで起こる奇想天外な謎の數々!!
本格ミステリー
連続殺人の究極
で、帶の裏は以下の通り。
本格ミステリーのマエストロ島田莊司
今まで多くの若手作家のデビューを後押ししてきた氏が満を持して世に送り出す小島正樹
二人が細部まで煮詰め、壯大な構想と精緻なトリックが合わさった濃密な本格長編ミステリーがここに登場!!
小島正樹って誰?……とりあえずジャケ裏を見ますと、こんなことが書いてありますよ。
小島正樹
埼玉県生まれ。十代の頃より作家を志し修業に勤しむ。數年前から島田莊司に師事し、『御手洗パロディサイト事件』『御手洗パロディサイト事件2パロサイホテル』に參加する。壯大なスケールと精緻なトリックは21世紀のネオ本格の旗手として大きく期待される。
自分はパロサイ事件は未讀なので、まったくノーマークでした。
さて、早速本題に入りたいと思うのですけど、まず本作は二人の合作であるということです。そして作者の二人はどうやら師弟関係にあるらしい。
問題はこの「二人のコラボレート」がどのように行われたのかということでして。作家と寫眞家のコラボなんていうのはよくありますけど、本作の場合は二人とも作家ですから、この場合の分業がどのように行われたのかは大變氣になるところです。
例えば上に例を出した寫眞家と作家のコラボでしたら、讀者の側からその作品が生み出される過程でいかなる分業が行われたのかを知ることは容易です。寫眞は寫眞家、文章は作家、ということになるでしょう。
簡單に考えれば、ミステリの場合、作業をネタの創出と文章に分けることも可能でしょう。しかし本作の場合、岡嶋二人のように分担作業という樂屋裏が明らかにされてはいません。更には師匠弟子ともに文章も書ける譯で、讀者としては果たして島田莊司御大が本作にどれだけ關与しているのかを知ることは、本作をざっと讀んだだけでは出來ません。
例えば小島氏が本作で用いられているトリックを考えて文章も書き、最後の校正作業だけを島田氏が行ったということであれば、本作は限りなくパチもんに近いということになるでしょう、というかそう考えてしまいますよ自分は。
しかし出版社側としてはそう思われるのがイヤなので、樂屋裏は明かさずに、「二人のコラボレート」という少しばかり洒落た言葉を添え、さらにネームバリューのある島田莊司という名前を冠して本作をリリースしたのではないか、と自分は推測しています。
要するに本作における殆どの作業は小島氏が行ったのではないかと自分はまず邪推しました。そう、邪推ですよ邪推。ようし、パチもんであることを見拔いてやるぞ、という意地惡な氣持で本作に取りかかった譯です。
で、いきなり結論なんですけど、讀後の感想です。
本作は島田莊司の作品としての一定水準は満たしているといえるのではないか。
何だそれくらいかい、と思うでしょうけど、「島田莊司の作品における」一定の水準というのがかなり高いものであるということは皆さんご存じの通り。というか、本作は本當に徹頭徹尾島田莊司「的」なんですよ。
ジャケ帶にも「本格ミステリー論」の名前が躍っているのですけど、作中で展開される連続殺人事件はこの理論を忠實になぞったものなのです。
例えば硝子片や酒器を積まれた小船とともに鐵橋から吊られていた死体。そして岩の上で燃やされた死体の頭部には扇子がおかれてい、その岩には大量の灰が蒔かれていたり、さらには鎖で岩に括りつけられ、兩腕を垂直に伸ばした恰好で首を切断されていた死体。まだまだこれだけではありません。第四の死体は、右足を腿のところで切断されていて、その付け根にはとらばさみがはさまっていた。第五の死体は船の上で黒焦げになるまで焼かれていて、刃物で裂かれた腹からは内臓がはみ出してい、この死体も第四の死体と同樣に、右足の腿を切断されていた、と。
これだけではなくて事件のあった夜には、狐火や龍の出現といった怪異が目撃されているあたりも島田莊司的です。またこれらは物語の中程で、秩父の民話をなぞった見立て殺人であることがほのめかされるあたりも、初期の吉敷ものを髣髴とさせます、……というか吉敷が最後の方で登場するんですよ、ちょっとだけですけどね。
島田莊司的なのはこれだけではなくて、縣警の警察がこれまた居丈高な馬鹿者で、中村や民間人にやたらと横柄な態度でつっかかかってくる。莫迦なのに獨斷的でいばり散らすというある意味、島田莊司の小説では御約束ともいえる人物も端に据えて、仕込みは完璧といったところでしょうか。
ロジックは無視して、強引に樣々な怪異を説明してしまうあたりも島田莊司的。最後に犯人の手記で終わるあたりも島田莊司的。そしてその動機というのがかの戦争に絡んでいたという進歩主義的(惡い意味で)な思想がハナにつくあたりも島田莊司的。
という譯で、いいところも惡いところも完璧に島田莊司の作品をトレースしているのです。
事件は秩父の一旅館に宿泊している戰友慰霊会の人間を中心に展開されるのですが、このあたりは「龍臥亭事件」のよう。またたたみかけるように殺人事件が発生し、小さな仕掛けを積み重ねているあたりも「龍臥亭」的です。
しかしその一方で何か初期の吉敷もののような風格もあるんですよねえ。何というか文章の艶というか、地の文の書き込みなどがそう感じられます。もしかしてこのあたりは島田莊司氏が書いているのか、それとも小島氏が初期の島田氏の作品をリスペクトしているのか。
肝心のトリックは島田莊司の作品としてはまあまあでしょうか。「龍臥亭事件」が許せる人であれば全然問題ありません。初期吉敷ものや御手洗もののような驚きはありませんが、複雜な物理トリックに感心はしました。
もし島田莊司の名前がついていないで、この作品が世に出ていたら、おそらくかなり評價されたことでしょう。
ひとつのミステリの作品として見た場合、かなり評價は出來ます。しかしこの作品、繰り返しになりますけど、島田莊司と小島正樹という気鋭の新人の合作なのですよ。この作風であれば、恐らく島田莊司の名前がなければ大きな話題になることもないでしょう。その一方で、名前がついているが故に、気鋭の新人小島正樹の一作品として手放しで賞贊出來ない、というジレンマに陷ってしまうのですよ、自分としては。
自分などはとりあえず出版社の狙い通りに、島田莊司の名前で購入したクチなので、南雲堂としてはしてやったり、ということになるんでしょうか。
南雲堂としては今後、この作品を機に小島氏を独り立ちさせて、島田莊司の名前がなくとも売れるような作家に育てたい、と考えているのだと推察するのですが、……だとしたらこの作品は致命的な失敗を犯しています。もう取り返しのつかないような、致命的な失敗です。
これについては、長くなるし、ミステリ的なところから外れてくるので、次に述べたいと思います。續く。