傑作。個人的には深水黎一郎氏と並んで現代本格の最先端をいっていると確信しているこのシリーズ、前作の『うまや怪談』で行くところまでいっちゃったかと思っていたら、それを上回る素晴らしさでありました。
収録作は、真冬に屋形船の上で『たがや』なる夏モンを演ってくれという奇妙な依頼を受けた福の助が魅せる技芸と、そこから立ち上る怒濤の伏線回収と構図の緻密さに舌を巻くこと必定の傑作『多賀谷』、耄碌師匠が三題話で高座に上がるのを助けることになったところから、ささやかな謎の集積が小気味よく紐解かれていく過程をスリリングに見せる「三題噺 示現流幽霊」、復帰前にと訪れた深山の屋敷で発生した出来事に師匠の過去が重ねられ、そこから二重三重の操りと大どんでん返しが開陳される傑作「鍋屋敷の怪」、そして「鍋屋敷」の余韻に浸りながら読者を優しい気持ちにさせる粋な一編「特別編(過去)」の全四編。
『うまや怪談』からの流れを引き継ぐとあれば、本作の一番の見所は師匠の復帰独演会にあることは明らかながら、そこに至るまでにもこれまた凄まじいまでの技巧を大投入して読者を唖然とさせてしまうやりすぎぶりが序盤から炸裂するのが、冒頭を飾る「多賀谷」で、ボンクラのマジックだの、ホームドラマ的なエピソードがさらりさらりと描かれながらも、本格ミステリにはありがちな大きな「事件」は発生しません。これが火サスとかであれば、ド派手に人死にがあって、探偵役の刑事が誰ソレが怪しい、しかし奴には鉄壁のアリバイが、……というフウに要所要所で何が謎かをこちらにご丁寧に説明してみせることで、まずしっかりと関心を惹きつけてみせ、そこから軽いサスペンスなども交えて物語を展開させていくというのが、いわゆる「ミステリ」の常道でしょう。
しかしこのシリーズ、特に前作『うまや怪談』からは、そうした明快な謎の様態を読者に明らかにせず、上にも述べたようなド派手な「事件」を起こさずに、ちょっとした一悶着くらいのかたちで「日常」の中にさりげなく違和感を添えて読者の視点をそちらに向けさせるくらいがせいぜいゆえ、まずもって謎を提示し、その謎の背後に隠された真相を推理する、という本格ミステリに期待される読み方が通用しないのが個性的。
しかし謎が「見えない」からといって、じゃあ、ミステリ的な読み方はマッタク通用しないのかというとさにあらず、ホームドラマ的なシーンの要所要所には、その背後で誰も知らずに進行しているある出来事があり、またそれらは構図を仄めかす伏線となって隠されています。さらにはそれを落語の改変というかたちで「探偵」である福の助が「演じて」みせることで、隠されていた構図を示してみせるという、――いうなれば構図を企図した「読み」が試されるという点がフツーの本格ミステリとは異なるところでしょうか。
たとえば「多賀谷」では、確かに後半、いかにも怪しい輩が登場して、どうやらそいつが腹黒いことを考えてある人物をおとしめようとしているのは明々白々ながら、これが件の演目の改変というこのシリーズならではの見せ場にどう昇華されていくのかは実際に「探偵」の絵解きが始まるまでは判りません。しかし演目が始まるやいなや、あれがコレであれがこうなっていたのか、……とホームドラマ的なほのぼのした筆致で前半に描かれていたあれこれがすべて隠されていた構図へと収斂していくさまは相当にスリリング。
落語の改変が謎解きと密接に絡み合うという独特の結構ゆえ、落語のことをよく判っていないとアレなのかというと、これまたそんなことは全然なくて、自分のようにそちらの方面にはズブの素人であっても、この伏線の回収と構図の妙に注力した読みだけで十二分に愉しめます。またこうした落語のビギナーに対しては、亮子というもう一人の「探偵」役を配して、現在進行形の「謎解き」を「謎解き」してみせるという二重の結構によってしっかりと補完されているのも心憎く、亮子の視点からは大きな起伏のない緩やかなホームドラマとして見えていたものが、この謎解きによって見事な反転をみせる見せ方も素晴らしい。
「三題噺 示現流幽霊」もまた「多賀谷」と並ぶ構図の開陳が凄みを見せる一編ながら、こちらは亮子がホームドラマ的なイベントとして提示されたものをまず「謎」として咀嚼し、それをリスト形式で並べてみせるという親切設計ゆえ、「多賀谷」ではいったい何が何だか、と頭がグルグルしてしまった初心者でもすっと馴染めるのではないでしょうか。
とはいえ、この十にリストアップされたものにも一見すると脈絡はなく、「いったい何が起きているのか」というのは、謎をざっと並べただけではマッタク判然とせず、またこの十の謎をひとつひとつ紐解いていこうとしてもどこから切り込んでいけばいいのか、その違和を端緒とする「謎」の様態も一筋縄ではいきません。今回はいつもの探偵役である福の助にくわえて、すでに背後の構図を早くも見抜いてしまった馬春師匠の謎めいた言動の真意までもを添えて読者を翻弄してみせるわけですが、探偵の推理となる演目も、既知の前半を繰り返し、そこから未知の領域へと切り込んでいく見せ方の外連にも引き込まれます。
そしていよいよ真打ちともいえる「鍋屋敷の怪」へと至るわけですが、「屋敷の怪」とあるからにはいよいよ本シリーズでも閉ざされた山荘で人死にがあるのかと早とちりしてしまうも、もちろんそんなことはなく、独演会の前に皆で訪れた山奥の屋敷でとある事件が発生して、――といかにも「事件」を匂わせるイベントが発生するものの、本編の本仕掛けはそこにはまったくなく、本格ミステリの事件を構成する「犯人」「被害者」の構図が見事に転倒してみせるこの仕掛けは超弩級。正直、ここで活写されている怒濤の操りと構図、主体と客体の見事な反転は何となくこの作品を想起させるわけですが、この復帰独演会から見た主体(犯人)と客体(被害者)が、この構図の反転によって立ち現れるもう一つのものから見ると見事に逆転しているという仕掛けの徹底ぶりには舌を巻きます。またそこから繰り出されるどんでん返しの数珠つなぎは本当にこの作品の作者のファンであれば見逃せないところでしょう。
そしていよいよこのシリーズの読者が期待していたアレが始まり、……というところで唐突に幕となる終わり方に唖然とさせながらも、その余韻をすぐさま「特別編(過去)」で引き継いでみせるという一冊の本としての構成の素晴らしさについてはもう完全に脱帽です。
作者の愛川氏はあとがきで、「本当はここで、皆様に、このシリーズの終了のご挨拶をするつもりだったのです」と書いている通りに、これでシリーズが終わりであっても、まあ、納得かな、という幕引きながら、まだまだ続くとあって一安心。正直、ここまでやるかいッ、という超絶ぶりはシリーズを終了させようとした理由として「あまりにもこりに凝った設定が負担に感じられるようになったせい」と述べているのも頷けます。
しかしこれだけの徹底ぶりを見せながらも、ホームドラマ的な風格も含めて、その凄みを表面上はまったく感じさせず、さらりと仕上げているところが心憎い。落語ファンが読めば、福の助の改変の妙だけでも十二分に愉しめるのでしょうが、本格ミステリ、――それも黄金期から連綿と続くド派手な外連タップリに死体がブーンと宙を舞って、人死にのフーダニットがまず大きな謎として明示されるとともに、ボンクラワトソンが見立てだ密室だと幼稚園児のように騒ぎ立てた挙げ句、おトイレ臭い機械式トリックが開陳されてガッカリ、……みたいな作品とはまったく逆を行く風格ゆえ、本格ミステリ読みの方でも本作をどう愉しめば良いのか戸惑ってしまうのでは、と推察されるものの、構図に注力した読みという現代本格では定番化しつつある手法を用いれば没問題。
個人的にはこの「神田紅梅亭寄席物帳」は、日常の中の不可思議を抽出して読者に魅力的な謎を提示することで現代本格に新たな地平を切り開いてみせながらも、結局「人死にがなければどんなチマチマしたモンでも日常の謎」というフウに劣化と陳腐化によってダメになった「日常の謎」ものとはまったく違った切り口で、現代本格の最先端を行くシリーズだと確信しているゆえ、シリーズの続きを作者の愛川氏が宣言されたことは嬉しい限り。
『うまや怪談』でもう極めただろう、と思っていた予想を遙かに上回るかたちで凄みを見せつけてくれた本作、落語が好きという方はもちろん、現代本格の新しいかたちを体感してみたいというミステリファンにもオススメしたいと思います。