傑作。ジャケ帯に曰く「世紀の< 奇書>、ついに降臨」。そして「黒死舘殺人事件」「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」の名前が掲げられ、そこへダメ押しとばかりに「魔術と数式に彩られた想像を絶する見立て殺人」という惹句。
そこへもってきて「黒死舘」へのオマージュであることや衒学三昧といった作風を耳にすれば、古典リスペクトの原理主義者も「唇から前歯をミッとはみ出させ」ヘラヘラと薄氣味惡い微笑を口許に浮かべながら「うくく、……芦辺拓もようやく本格ミステリはどうあるべきかということが判ってきたらしい」なんていうフウに大期待してしまうのではと推察されるものの、そうした方々が下手にかかると大火傷をしてしまうという超絶な一冊ゆえここは取り扱い注意、ということで。このあたりは後述します。
物語を簡単にまとめると、とあるきっかけで「綺想宮」なる奇妙な宮殿を訪れた探偵森江が連続殺人に巻きこまれ、――という話。舘ものに見立て殺人とコード型本格の樣式を完璧なまでにトレースし、そこへ原理主義者が三度の飯より大好きな衒学蘊蓄を最大級にブチ込んであるとなれば、そうした風格を芦辺ミステリのファンであれば「らしくない」と感じるであろうし、原理主義をリスペクトしているようでいてお定まりの樣式を軽軽と飛び越え、果敢に現代本格的な実験に挑戦している芦辺ミステリのスタイルにある種の反感を持っている層は「待ってましたッ!」と拍手喝采してみせるカモしれません。
さて、では実際はどうだったかというと、……結論からいうと、本作は「黒死舘」を意識しつつも、「黒死舘」が内包しているコード型本格の極大化や過剰性といったものは、すべて芦辺ミステリの樣式へと完全なかたちで取り込まれ、現代本格の技巧へと昇華されています。
実をいえば、本作で探偵森江が様々な分野の衒学を得意気に話してみせるシーンにある種のぎこちなさを感じていた森江ファンは、そうした黒死舘リスペクトを装ってみせた展開に巧妙な仕掛けが隠されていたところは想定内、むしろ期待通りの真相にニヤニヤしてしまったわけですが、本作の凄みはそこからさらに踏みこんで、連続殺人という、コード型本格の様式美として期待されている謎までをも無化してしまうところでしょう。
従来の芦辺ミステリであれば、そうした無化作用はメタ・ミステリ的な結構を採ることで達成されていたものが、本作ではコード型本格の形式が我々読者のいるリアルへと接続されることでグロテスクな真相を明らかにし、それが「虚無への供物」を彷彿とさせる「ミステリ」というジャンルに対する悲痛な問いかけとなっているところが素晴らしい。
連続殺人という謎が解体されるというよりは、無化されるという真相にアンチ・ミステリ的な風格を感じるのはミステリ読みとしては当然ながら、興味深いのは、そうしたこころみが「虚無への供物」を意識して、意図的にそうしたアンチ・ミステリ的なベクトルへと放たれたのではなく、「虚無への供物」と同様の「問題意識」、――もう少し大袈裟にいうと「危機感」によって表出された帰結であると感じられるところです。
それは、衒学の奔流によって装飾された事件の描写から一転し、読者が立っている醜悪な現実を活写することによって、この事件の渦中で「探偵」の行動の真意が明らかにされていく意想外の展開からもうかがえます。
謎解きによって、リアルへの問題意識と「ミステリ」に対する危機感が強烈に連関し、連続見立て殺人という舞台そのものが無化された企図の彼方に、装飾された虚構の事件が醜悪な現実へと転化するのを押しとどめようと格闘した「探偵」の姿が浮かび上がるという結構に、今までは虚実の交錯やメタ・ミステリとして語られていた芦辺ミステリのさらなる深化と進化を見せつけられたような気がします。
また「紅楼夢の殺人」から続く「探偵」「被害者」「犯人」といった探偵小説における役割を意識したアプローチは、本作にもシッカリと凝らされてい、これが上に述べたような、メタ・ミステリからさらに踏みこんでみせたアプローチに重ねられ、それが現代本格的な「操り」とそれに対する抗いとなって活写されている真相も秀逸です。
こうしてこの物語は原理主義者に対する強烈なパンチでカーテン・フォールかと思いきや、エピローグでこれまた、現代の探偵小説に巣くうもうひとつの宿痾に対してもハイキックを繰り出してみせるというオマケつきで、ここからジャケ帯にある「魔術と数式に彩られた想像を絶する見立て殺人」という惹句に対して「大いに偽りあり」と拳を振り上げるか、あるいは芦辺ミステリの眞骨頂を見せてもらったと拍手を送るか、あるいはアンチ・ミステリとか「虚無」とかそんなコ難しいことはこのさいスッ飛ばして痛烈なバカミスとして称贊するか、……門戸を狭くしているようでいて、その実、多樣な読みを許容してみせる非常に美味しい逸品と自分は感じてしまったのですが、他のミステリ読みの方々が読後、本作にどのような印象を持たれるのか興味のあるところです。
ただ、上に述べたように、本作は多樣な読みを受け付ける間口の広い傑作といえど、それもひとえに「ユーモア」「稚気」といった「鍵」がなければ開くことができないものでもあり、上から目線の否定と批判こそがクールと感じている読者に「綺想宮」の深淵を覗くことはできない、という但し書きは付しておくべきカモしれません。
そうした意味で本作、「最後の探偵小説、探偵小説の最期」とあるものの、その本質は、探偵小説が持っている稚気と、リアルへ対峙するこころざしを持たぬ「ある種の人々」への「絶縁状」とも受け取れるわけで、このあたりは完全に取り扱い注意、ということで。「紅楼夢の殺人」と並ぶ、現時点での芦辺氏の代表作といってしまっても良いであろう本作、現代本格の読者にはマストといえる逸品といえるでしょう。オススメです。