若僧どもが、中年男の底力を見せてやるわい。
「三年坂 火の夢」の方は今ひとつ愉しめなかった自分でありましたが、こちらは堪能しました。まあ、確かにトリックも投げやりで説得力は全然ないんですけど、これについては後述します。
物語はシベリア捕虜收容所での殺人シーンで幕を開け、その後、すぐに句集を本にしたいという老人を、自費出版社の社員であるモジモジ君が訪ねる場面へと續きます。で、この老人が仕上げた句集に、收容所時代の奇妙な殺人事件の犯人の名前が名指しされているというのだが、……という話。
ほぼ時を同じくして、收容所で發生した殺人事件には看護婦として関わっていたロシア人女性が來日、彼女は死体となって見つかります。そして彼女の日本での案内人だった男は失踪、こいつが犯人かということで警察の方は捜査を進めていく。
こうしてモジモジ編集員とその上司である張り切り姉さんのパートと、現代の事件を追いかけていく刑事の場面とが併行して語られていき、その間に件の句集の文章が挿入されていくという構成なんですけど、このシベリア收容所時代の逸話が強烈で、一氣に物語に引き込まれます。
正直、本作の魅力の殆どはこの收容所時代の描寫に負うところが大きいんですけど、これだけの内容を描きあげてしまうだけでも作者は相當の實力の持ち主と認めてしまってもいいのではないでしょうか。
で、句集を本にしたがっていた老人は置き手紙を殘して失踪してしまい、契約の方がオジャンになりかけたからモジモジ君は大慌て、張り切り姉さんに散々ハッパをかけられながらも老人の行方を追いかけていくのですけど、このあたりの二人の掛け合いもうまい。
これが現代の事件を追いかける刑事の場面だけ、或いは自費出版社のモジモジ君たちのパートだけだったら、かなり平板で退屈な作品になってしまっていたと思うんですよ。個々のシーンはじっくりと書き込まれているゆえ、物語全体としてはややもたついた印象が残るものの、シベリア收容所という大きなテーマが物語の底にしっかりと据えられているゆえ、選者が指摘している物語の緩慢さに關してはあまり気にはなりませんでしたよ。
また本作、この個々のパートを繋ぐところの技も冴えていて、例えば最初の方の場面でモジモジ君が原稿をコピーし、それを帰りの電車の中で読み耽るというシーンがあるんですけど、このすぐあとに老人が列車に乗ってシベリアの收容所へと運ばれる場面が挿入されます。悲慘というにはあまりに悲慘な過去の列車場面の描寫と、現代のシーンとの見事な対比。
選評で乃南アサ氏は「物語の「コマ」にしか使わない人間の描き方には雜さが感じられ、描寫も冗長で平板」と書いているんですけど、プロの目から見たらそうなるのでしょうか。自分はまったく逆の感想を持ったんですけどねえ。
そもそも「コマ」にしか使わない人間にまで緻密な描寫を求めるというのがミステリとして正しい手法なのかなア、ミステリ小説に登場する人物でじっくりと書き込まれていればそりゃあ脇役とはいえ、そいつは事件に關係したアヤしい人物でなくてはおかしい譯で、……なんてかんじで、選者のミステリ小説に對する立ち位置の違いを確認するのもまた一興かと。
「コマ」ではない人間描寫に關してはもう完璧といっていいくらいで、例えば件の老人がシベリアから引き揚げてきた後、今に至るまでの生活を語る台詞があるんですけど、こんなかんじ。
「……引き揚げてきたはいいが、精神的にまいっていたんでしょう。三十半ばまで記憶が定かではないんですよ。と言っても記憶喪失とかそんなんじゃない。部分的には覚えているんですが、改まってどうしていたかと問われても真っ白なんです。いや真っ黒なのかな」
白ではなくて黒、なんて台詞でさらりと決めてしまうあたりが見事、というか、よくよく思い返してみると、一昔前の小説っていうのはこういうキメ台詞がイッパイあったよなア、なんて思わず感慨に耽ってしまいました。
で、作者の受賞の言葉を讀んでみますと、曰く「小説家への夢を抱いたのは江戸川乱歩の随筆『探偵小説』の「一人の芭蕉の問題」という一編に感銘を受けたからです」とありまして、勿論作者が乱歩のこの一編をもって「人工の謎を推理によって解き明かす面白さを損なわず、人生の謎にも光を当てられる娯楽作品を書いていきたいと」考えるに到ったというんですけど、自分はこの言葉に土屋隆夫の後繼者たらんとする作者の強い意志を感じてしまいます。考えすぎでしょうかね。
乃ち本格ミステリと人間ドラマの高度な融合こそが作者の希求するミステリの理想型であり、「十二歳の少年が書いたような」お子チャマミステリとは譯が違うのだ、と。
こんなふうに感じてしまうのも、この作品、シベリア收容所のエピソードから人間の悲哀を描き出すのが本題だとすれば、その一方で昨今のクダラない出版業界に對する強烈な皮肉も感じられるんですよ。
お子チャマがマンガの盗作をしていたり、一般人を食い物にする自費出版業界を皮肉っぽく描いているかと思えば、「最年少ブーム」に便乗した小説賞の現状をこれまたネチネチと書き出しているところなど、中年である作者の、この業界に對する呪詛の言葉が行間から滲みだしているところも個人的にはナイスでした。
では肝心のミステリとしての仕掛けはどうかというと、正直これはちょっと、というかかなり弱いです。極寒のシベリアの地における凶器なき殺人、というのが本作における大きな謎でありまして、犯人はいかなる凶器を用いて被害者の首を切断したのか、というところがキモ。
しかしこの犯行現場で凶器といったらアレしかないでしょ、なんてかんじで最後まで讀み進めていくと、オヤオヤという事実が開陳されてジ・エンド。これには正直口がポカンとしてしまったんですけど、本作の見所はやはり失踪した老人が殘した俳句から過去の殺人事件の犯人を推理していくところにありまして、このあたりはややコジツケに過ぎるんじゃないかなあ、と思いつつもそこそこ愉しむことが出來ましたよ。
では、ミステリとしての仕掛けが弱いからダメかというとそんなことは全然なくて、これ、おそらくは懸賞小説の猛者である作者が乱歩賞を何としてもものにする爲、敢えてこのようなショボい仕掛けに落としたのではないか、と思うんですよ。いうなれば確信犯。
というのも、これだけの小説の結構を仕上げてしまう作者のことですから、もっとトリックに重點をおいた作品にすることも決して出來ない筈はなかったと思うんですよねえ。でもそうした本格ミステリに傾斜した作品だと百パーセント、現在の乱歩賞では受賞は無理、というかまず下読みの段階で落とされてしまうことは必定でしょう。
そうなれば老獪な作者のことですから、その対策をとることにも拔かりなく、敢えてこういうチンケなトリックで乱歩賞の一本釣りという勝負に出たのではないかと思うのですが如何。
まあ、そういう譯で、人間ドラマを見事に描いてみせるその筆捌きは相當なもので、作風において近いと感じたのは、上に挙げた土屋隆夫に水上勉、あたりでしょうか。このままいけば水上勉の「飢餓海峽」のような歴史的傑作をものにするのではないか、なんて土屋、水上ファンの自分は大いに期待してしまうのでありました。次作を樂しみに待ちたいと思いますよ。
とはいえ、こういう物語の結構は、新本格から和モノのミステリに入っていった人たちにはやや退屈に感じられてしまうかもしれません。そのあたりがちょっと心配といえば心配、ですかねえ。まあ、物語のテンポという點に關しては土屋御大の諸作よりもゆったりしているので、ここにちょっと目をつむっていただければ本作で展開される素晴らしい人間ドラマを堪能することが出來ると思います。
ところで今、鏑木氏と早瀬氏のプロフィールを讀み返してみたんですけど、早瀬氏は63年生まれ、そして鏑木氏に至っては61年生まれと二人とも四十代のオジサンですよ。これに最年少ブームで盛り上がった昨年あたりの珍現象は何だったのか、と考えてしまうのでありました。
でもこのまま鏑木氏や早瀬氏のような乱歩賞狙いの老獪なオジサンやオバサンが大賞をかっさらっていくようになってしまったのでは、あまりに当たり前過ぎて面白くない。という譯で、講談社におかれましては次回の乱歩賞は是非とも再びキワモノ最年少ブームで大勝負に出ていただきたいと思いますよ。
「0歳児の赤ちゃんの口述筆記!ダアダア、バブバブ。赤ちゃん言葉に隱された真実を解読するのは読者であるあなた!暗号小説はついに「秘文字」を超えた!これは日本ミステリの遺言状である!」みたいな惹句をつけて、堀北真紀とか長澤まきみあたりのコメントをジャケ帶につければ大ベストセラーも間違いなし、……になるんでしょうかねえやはり。