數日前に「CRITICA」に掲載されている鼎談を紹介して以降、今回の一件について昨今の出版業界への不滿も交えてダラダラと書き綴っていたんですけど、讀み返してみるにつけ何だか冗長なばかりで全然面白くない(爆)。なので、今日はちょっと方向を變えて今思うところを簡單に書いてみたいと思いますよ。
とりあえずタイトルでは容疑者X「騒動」としてみたんですけど、二階堂氏のサイトでの發言に端を發する「『容疑者Xの献身』は本格か否か」という論争については、前にも述べた通り、巽氏が二階堂氏のサイトに寄せた論考でもって既に「詰んでいる」と自分は感じておりまして、その後はただ各がああでもないこうでもないと聲をあげているばかり、という認識です。
現在は「ミステリマガジン」八月號に掲載された有栖川氏の「赤い鳥の囀り」と今月號の千野帽子氏の「少年探偵団 is dead. 赤毛のアン is dead.」をきっかけに、笠井氏と二階堂氏を當事者として何だかトンデモない事態に発展しそうな今日この頃、……ってすでに論争の内容は、容疑者Xが本格か否かという點からは完全に離れてしまっているようなので、ここでは以後、この件については「容疑者X問題」ではなく「容疑者X騒動」と記述することにします。
二階堂氏が目下執筆途中にある「本格評論の終焉」ですが、ここで氏は、批評家が森博嗣氏などをデビューの時にはとりあげておいて、現在はまったく無視しているという行為を批判しているのですけど、評論にとりあげ「ない」というところから、その「不作為」をもって彼らの活動を批判するというのはちょっとどうかなア、と思うのですが如何でしょう。
當然の事ながら批評家の方々が自身の文章を發表できる場も限られている譯で、そうなれば、仕事として或いは評論を行うにあたっては「美味しい」作品、有栖川氏の言葉でいえば「評論栄え」する作品をまず取り上げてみせるのも致し方ないのでは。
ただ探偵小説研究会が今回サイトを開設し、發表の場を誌上からネットへと拡げたことで、少なくともこの點はクリアされていくのではないかと、個人的には期待していますよ。勿論研究会會員の方々の活動に時間的制約というものはあるにしても、今後は本格ミステリ周邊の作品も含めてサイトの方でガンガン取り上げていってもらえれば嬉しいですねえ。
で、話を「本格評論の終焉」に戻しますと、二階堂氏は例として森氏や清涼院流水氏を擧げているんですけど、これはそのまま氏の作品にもあてはまると思うのですが如何でしょう。つまりデビュー作から「人狼城」まではあれだけ持ち上げておき乍ら、二階堂氏自身は會心の一作と信じている「カーの復讐」が評價されない、というのはどういうことなのだ、と。
自分は「カーの復讐」は以前も書いたとおり二階堂氏の作品の中では傑作だったと思うんですよ。確かにトンガったところがない「評論栄え」のしない作品故に、正面から二階堂氏の作品を論じようとすれば非常にありきたりの内容になってしまうであろうことはその通りで、批評家の方々にしてみれば取り上げるにしてはあまりに「美味しくない」ことも認めます。
それでも例えばパスティーシュの體裁をとりつつ、ミステリ的な趣向には乱歩正史的な稚気を見せているというところなどはもっと評價されるべきだったと思うし、ここから蘭子シリーズへと連なる二階堂氏の作風の連續性を見るという指摘も可能だったのではないでしょうかねえ。またカー的な舞台装置の上に「黒死館」的な小説的結構を取り入れた蘭子シリーズの佳作「悪霊の館」との類似性を指摘してみせるとか、樣々なアプローチでこの作品を評價することも出來たのではないかと。
またこういう切り口で新本格以降の作品からミステリに興味を持つようになった讀者に對して、乱歩や正史さらには「黒死館」をさりげなくお薦めするというのもアリだったのでは、なんて考えたりするんですけど、自分のこういう愉しみ方はプロの批評家からするとやはり間違っているんでしょうかねえ。
確かに眞相がすぐに分かってしまうような作品はクズ、という(そこまではいってないって)笠井氏的、小森氏的な価値観ではかれば「カーの復讐」は犯人もバレバレだし、全然イケてない作品には違いありません。しかし推理ゲーム的な要素だけがミステリ小説の價値の全てであるという考えに自分は与しないし、そういう一面的な評價は作品の持っているポテンシャルを恐ろしく狭めことになるんじゃないかなア、なんて思うんですよねえ。
とはいえ、作者である二階堂氏自身が推理ゲーム的な要素に價値をおいて作品を評價しようとするところがあって、それが大いにこの問題を複雑にしているのは事實ではありますが(爆)。
また「キミとボク派」や「脱格系」が本格ミステリ界隈から「排除」されていたという二階堂氏の意見なんですけど、西尾氏はご存じの通り既に多くのファンを・拙んでいるし、舞城氏は三島由紀夫賞を受賞している譯で、寧ろ本格ミステリ界から「排除」されたことは二人にとって良かったのではないかなア、とまあ、あくまで結果論なんですけどそんなことを考えてしまうのでありました。
それとも本格ミステリ業界から兩氏が「排除」されたことによって手ひどい仕打ちを受けた、とかそういうことがあるんでしょうか。西尾氏と舞城氏の現在の健筆ぶりを見る限りそういうところは微塵も感じないんですけどねえ。
さて、二階堂氏が「本格評論の終焉(2)」で述べている、千野氏が多くの本格作家を引き合いに出している個所でありますが、「CRITICA」をまだ手にとっていない方には、二階堂氏の言うとおり、千野氏は本當に新本格作家の方々を小バカにしているのか、今ひとつ判然としないと思います。で、ひとまずその部分の引用を以下に掲載しておきますので、皆樣それぞれで判断のほどを。
さて、反抗する若者たちもオヤジになり、みずからの教養で後進を抑圧する立場になります。一九八〇年代末の本格第一世代は、オヤジ慰撫読物の新人賞と堕した江戸川乱歩賞にたいして、「真の教養」(黄金本格ミステリの知識)を武器に立上がったブッキッシュな叛乱者たちであった、と思いっきり単純化して考えるとわかりやすい。乱歩賞の下読みや銓衡をしていた人たちは、< ジュリアン・シモンズが唱えた「ミステリーはすべて犯罪小説になる」という嘘>(二階堂黎人『十五年間の功績』)を信奉する俗流ヘーゲル主義的「教養俗物」として、反抗の対象となりました。
綾辻行人さん、法月綸太郎さん、有栖川有栖さん、我孫子武丸さんは、自動化した娯楽小説リアリズムを相対化するために、「青春小説」が不可能な時代にブッキッシュなパロディ的な青春小説をやったのではないか。関西系ではないけど、歌野晶午さんや早すぎたため沈黙を強いられた小森健太朗さんもこの系列に入るかも。
その後、綾辻センセや法月氏、我孫子氏、有栖川氏などの「その後の道のり」を纏めているのですけど、これも單に本格第一世代の作家がデビューしたあと、「その後の道のりはだれも平坦では」なかったということを述べているに過ぎません。例えば綾辻氏に關する記述はこんなかんじ。
綾辻行人さんは「童心」へと戦略的に立てこもることを選びました。登場人物を徹底して成長させなかったのです。これはよほどの美意識と覚悟を伴う選択で、たいていの作家はこれをやってもみっともなくなるだけです。
寧ろこの「美意識と覚悟を伴う」選択を行い、それを爲し遂げている綾辻センセの實力を認めているように自分には讀めるんですけど、違うんでしょうかねえ。さらに、有栖川氏と歌野氏については、
三〇歳になる三箇月前にデビューし、見苦しくない「求心的」本格ミステリを安定して生産し続けている希有な作家である有栖川有栖さんは、成熟過程の記述(江神二郎もの)を休止して成熟以後(火村英生もの)を書くことで、成熟の瞬間を描くことを賢明にも断念しているように見えます。歌野晶午さんの休筆期間も、この断念にかかわっています。
「見苦しくない「求心的」本格ミステリを安定して生産し続けている希有な作家」という言葉は、これまた少なくとも自分には有栖川氏の作家としての活動とその力量を認めているように讀めてしまうんですけど、違うんでしょうかねえ。
というかんじで新本格第一世代の作家のことを述べた後、本題ともいえる「村」の世間としての読者共同体へと話題は轉じます。そして件の「読書共同体が姿を現すもうひとつの場面」として二階堂氏も含めた「ボクら派」の説明がなされる譯ですが、これについては、ちょっと違うんじゃないかなア、と先日書いた通りです。
という譯で、自分的には決して綾辻氏や有栖川氏も含めた作家の方々を千野氏がバカにしているようには讀めなかったんですけど、或いは千野氏のいう「村」の世間としての読者共同体にドップリ浸かっている方々にとってはカチン、とくる指摘なんでしょうか、これって。
一介のキワモノマニアで、どうにも世間のブームから遠く離れたところでこんな駄文を書き散らしているプチブロガーである自分には、そのあたりがどうにもよく分からないんですよねえ。まあ、とりあえず二階堂氏が目下執筆中の「本格評論の終焉」の完成を待ちたいと思います。
それと皆さん、「CRITICA」を買いましょう。探偵小説研究会も、このまたとないチャンスを見逃すテはない譯で、「今が旬!容疑者X騒動をウォッチする爲のマストアイテム「CRITICA」創刊号はただ今絶賛発売中!」ってサイトに大きく書いてみせるくらいのエグさを見せてくれると、應援しているこちらとしても心強いんですけどねえ(爆)。