今月號の「野葡萄」には久しぶりに傅博こと島崎御大の文章が掲載されていたのですけど、内容の方はというと、遠流出版からリリースされた芦辺氏の「紅樓夢の殺人」に添えられていた島崎御大の解説を転載したものでありました。
作者の来歴を述べるとともに、作品の内容を簡單に纏めるという、島崎御大の解説では定番の構成でありますから、ここで自分が付け加えることもとりたててないんですけど、後半、島崎御大は芦辺氏の主張する物語至上主義に少しばかり言及しておりまして、これがまたちょっと氣になる書き方をしているんですよ。
蘆邉説過、爲了小説的故事性、願意犧牲其他之構成要素。《紅楼夢殺人事件》就是作者欲向讀者提供百分之百的娯樂性和故事性所寫下的一部典型物語至上主義作品。讀者読完本書後、請思考一下、作者到底犧牲了什麼?
物語性の爲ならほかのものは犧牲にしてもいいッ、と芦辺センセが主張する件の物語至上主義についてさらりと述べつつ、「紅樓夢の殺人」は作者が讀者に對して百パーセントの娯樂性と物語性をもって描き出した、いうなれば物語至上主義の典型的な作品であると書いてあるんですけど、氣になったのはその後の文章ですよ。
「請思考一下、作者到底犧牲了什麼?(本作を讀み終えたあと、讀者の皆さんに考えてみていただきたい。作者は本作では何を犧牲にしたのか?)」
個人的には、本作、物語至上主義よりも、あとがきで芦辺センセが触れているように「本来の意味でのメタ・ミステリがあまり書かれていないことに対しての実作者としての反論」という側面が際だっていると思うんですよ。
「物語至上主義」という點でいえば、最新作の「千一夜の館の殺人」や「時の誘拐」「時の密室」といった森江春策シリーズの方がより明確にそちらの方向性が打ち出されていると思うのですが如何でしょう。
そういう譯で、何を犧牲したか、といわれれば、「時の」シリーズでネチっこく描かれていた団塊世代へのボヤキだとか社会派的な部分は「紅楼夢」には希薄だったかなア、なんて感じたんですけど、果たしてこれは犧牲といえるほど大袈裟なものじゃないし、……なんて色々と考えてしまいましたよ。
で、今、さらっと「紅楼夢の殺人」のインタビューを讀み返してみたんですけど、芦辺センセが高校時代に「幻影城」に出會ってミステリに興味を持つとともに、その後京都の「13人の会」に參加するようになった經緯は書かれているものの、「幻影城新人賞」に三度作品を投じたことは書かれていませんね。
島崎御大の解説によれば、芦辺氏は小旗俊幸、芦辺荘六名義で三度作品を投じたものの落選、しかしその後に幻想文学に応募した「異類五種」が佳作入選を果たしたとあるんですけど、荘六という筆名の素晴らしいセンスに芦辺センセのことがますます好きになってしまったのでありました。