転倒反轉実驗精神。
[08/01/06: 追記
本作で行われている仕掛けについて少し詳しく書いてみたくなったので、今回はあからさまにネタバレしてます。未讀の方は御注意のほどを、というか日本人で讀んでいるのは自分だけですかやはり(爆)]
以前このブログでも取り上げた明日便利書の「風吹來的屍體」に同時収録されていた作品が本作で、「風吹來的屍體」のオーソドックスなミステリの結構に對して、本作は謎の提示から事件の解決に至るまでの構成から、非常に実驗的精神を感じさせる意欲作でしょう。
物語は、とあるマンションの二階に住んでいる「私」の語りで進みます。一階に舊本屋が店を出しているこのマンションの平凡なところが氣に入り、かれこれ五年間はこの部屋を借りているという私は、ある日、望遠鏡で窓の外の景色を眺めていると、向かいの空き屋の周邊にラブラドールを連れた女がウロついているのを發見。
そのあともたびたび女が犬を連れて空き屋のところにやってくる彼女は、穴の中に何かを埋めているらしい。その現場をコッソリ目撃した私は、いったい何をやっているのかと興味津々、やがて犬を連れた別の男がやってきて今度はその穴を掘り返している樣子。
どうやら二人は穴の中に埋めたあるものでメッセージのやりとりをしているようなのだが、……という「裏窓」フウの出だしから何か血腥い殺人でも起こるのかと期待していると、物語は日常の謎的な雰圍氣で展開していきます。
このラブ女の出現とほぼ時を同じくして、毎日犬に餌をやりにくる女主人が歸ったあとに決まって吼えまくるという座敷犬の謎も添えて、今、この空き屋の中心にして何が起こっているのかというところを主軸に物語は進んでいきます。
犬を連れた女と男のやりとりに關しては、二進法のギミックなども交えて中盤、暗号解讀めいた私の推理が開陳されるのですけど、實はこうして日常の謎系の話の背後で、語り手があることを隠しているというところが本作のミソ。お伽噺めいた逸話も含めて、この最大の謎を後半まで隠し續けるという構成が秀逸。
後半、唐突にとある令孃の誘拐失踪事件が語り手によって読者の前に提示され、物語は日常の謎から急転するのですが、普通の人だったらここで語り手の私の、というか冷言氏獨特の飄々とした語りによってこのやや無理のある展開に引き込まれてしまうに違いありません。
あの空き屋にはこの事件に關する何かが隠されていると確信した語り手の私は、夜になって懐中電灯を片手に空き屋への侵入を決行、果たしてそこで私が見たものとは……。
本作の場合、物語の前半を支える、犬を連れた男女の奇妙な行動という日常の謎を語り手の私が提示し、それを主軸に物語を展開させながらも、その裏で語り手の私が本當に隠さなければならないある事柄を語らせないという手法が凝っています。
さらにタイトルも含めて、不可解な出來事の核心にこの空き屋があるというフウに見せているところも素晴らしい。これはもう完全に語りの巧みさという、ミステリとはまた違った小説的技巧が伴わなければうまくいかない譯で、何処か飄々とした語りはこのあたりを見事にクリアしています。
そして空き屋への侵入によって一連の事件との關連が明かされたあとに、いきなり私がとある事實を語り出すという意表をついた構成。ここで一瞬呆気にとられてしまうんですけど、あとに日常の謎の淡々とした描写の裏で語り手が語らなかったあることを、その伏線も交えて明かしていく「謎解き」の部分はまた秀逸です。
さらに最後になって、空き屋を中心とした出來事の観察者たる語り手もまた「観察されるもの」であったという転倒と反轉。語りそのものがひとつの大きなトリックになっているゆえに、あまり多くを語れないところがアレなんですけど、物語の前半で大々的に提示された逸話が後半の本筋に大きく絡みながらも、それが讀者にとってはトリックになっているという特異な構成は、オーソドックスなミステリしか讀みなれていない方には非常に歪なものに写るかもしれません。しかし自分的にはこの仕掛けゆえに本作は傑作ではないかと思う譯です。
自分が好きな作品を例に挙げると、例えば連城三紀彦の「紫の傷」をひっくり返したような仕掛けとでもいうか。あの作品の場合、オバさんの警護を請け負った主人公が樣々な事件に翻弄される譯ですが、その實、この身辺警護中に發生していた出來事にはまったく違った意味があったことが、後半の推理によって明らかにされます。
身辺警護の間に發生する樣々な出來事がユーモアサスペンス風の筆致で描かれながら、その實その構成と語りはすべてある事柄を隠し通すためだったという転倒が後半に開陳される「紫の傷」の手法をそのままひっくり返して、語り手の「私」が一番隠したいあることを讀者の目から反らす為に、飄々とした語りで日常の謎を物語の中心に据えてみたのが本作ということになるでしょうか。
ですから、この「物語」の「事件」の本當の「犯人」は語り手の「私」である、ということになる譯ですけど、こういう讀み方をした人ってどれくらいいるでしょうか、というか、自分はこういうふうに讀んでしまったんですけど間違っていますかねえ(爆)。
実驗と技巧を重んじる冷言氏の作品ってある意味、麻耶雄嵩の作風にも似たところがあって、どうにも作者の意図が・拙みがたいところもまたひとつの魅力というか何というか、まあ、そのあたりが完全に自分好みなんですけど、そういう意味では冷言氏は台湾ミステリの中でももっとも最先端をいっているのかもしれません。
本書のプロフィールによれば、綾辻センセの「十角館の殺人」でミステリの虜になったって書いてあるんですけど、確かに二つの場所で展開されている出來事が最後にアレになるという「十角館」フウの構成は「風吹來的屍體」に見られるものの、前半と後半の急転に見られる本作の特異な構成はやはり異色。日本の新本格などより、ひねくれたフランスミステリの風格が濃厚に感じられます。恐らく自分が連城の作品を連想してしまうのもこのゆえだと思います。