ちょっと古い話題なんですけど、杉江松恋氏が自身のサイト「杉江松恋は反省しる!」のなか、「第59回日本推理作家協会賞決定」について書いている内容がちょっと気になったので少しだけ。
杉江氏は、この追記の中で、「松本清張辞典決定版」が協會賞を授賞したことに關し、藤田宜永氏が「やはり辞典と時評は違う。時評も長い時間をかけて綴られているものですが、雑誌掲載などを経てたまっていくものですから」と述べたことに言及しつつ「ああ、やはり日本では書評に対する認識は高くないのだな」という感想を述べています。
更にここでは以下のようなことを述べておりまして、
しかし、時評を長期間にわたって続けることにだって、辞典とは別種の辛さがあるのである。時間の経過に左右されない評価の軸を持ち続けるためには、相応の意志が必要となる。書評はあくまで読者のためのものだから、読者の利便性(インターフェイスのわかりやすさと言ってもいい)に配慮しつつ、なおかつ版元や読者に対する迎合とならない、独自の評価を下していかなければならない。そういうことを延々と続けていくのが書評の仕事である。「読んで」「書く」だけの作業だけど、たしかな「読み」のためには結構大変な労力が伴うと思うのですよ。日本の文芸では「読み」の要素が軽視される傾向がある、とは以前からの認識なのだけど、長くなりそうなのでまたそれは別の機会に。
「時評」と「書評」という言葉が混在しているので、ちょっと正確な論旨が判然としないんですけど、いずれにしろ、日本の文藝で書評や時評といった「讀み」の要素が軽視されているというのはちょっと意外、というか、もしそれが眞實だったら殘念だなあ、と自分などは思ったりする譯です。
もっともここで杉江氏がいっている「日本の文芸」という「世界」に讀者は含まれていないと思うんですけど、自分みたいな本讀みにとっては、杉江氏も含めた書評家や評論家といった方々は缺くことの出來ない存在でありまして。
「時間の経過に左右されない評価の軸を持ち続けるためには、相応の意志が必要となる」という杉江氏の意見は當にその通り。また、その一方で「延々と続けていく作業」の中で蓄積された書評時評から、物語、或いは小説の讀まれ方の変遷を辿っていくというのも、小説の樣態の變容を見ていく上にも非常に意義のあることだと思うんですよねえ。
例えば島崎御大が書かれた「推理小説的原點 愛倫・玻的五篇推理小説(下) / 島崎博(傳博) in 野葡萄31號」によれば、その昔、倒叙ものは本格ミステリの範疇には入っていなかったとのこと。しかし年月を経てそれも本格ミステリの中で語られるようになっていった譯ですが(未だこれに反対していると思われる原理主義者もいるとはいえ、とりあえずここでは無視)、こういった一次資料である當事の書評や時評をあたっていくことで、本格ミステリの變容や、讀者の意識の変わりようを見ていくということも出來るのではないでしょうか。
で、こういう作業の資料となりえるのは、しっかりとした評價の軸を持った本讀みのプロが書き溜めていった時評であり書評がまず選ばれるべきだと思う譯で、書く側である作家の方々もまた、批評家が呈示する讀み方、讀まれ方の變容を辿っていくことで、自らの立ち位置を知ることも出來んじゃないかなあ、……とか思うんですけど、やはり作家の方々というのはおしなべて我が道を行くというかんじで、評論家の書いたものなんていうのは「本格推理に対する理解不足や的はずれな意見の方が目に付き、憐憫すら感じてしま」うような方ばかりなんでしょうか。そういう奇特な人ってごくごく少數だと思うのですけど如何。
また書評家というのは、その作品の素敵な(敢えて正確とか的確とかそういう言葉はここでは使わない)讀み方を呈示してくれるという點でも、自分のようなバカな本讀みには缺かせない存在でありまして、書評時評といった「讀み方」の指標を指し示すという點では解説も同樣だと思うんですけど、杉江氏のグットジョブといえばまず思い浮かぶのが、昭和ミステリ秘宝の中の一册、陳舜臣の「三色の家」に付されていた解説。
華僑の男が探偵役で、先の大戦を背景にした作品が多いなか、下手をすればアッチ系左巻き連中に恰好の餌食とされてしまうような陳氏の作品に對して、作者がこれらの作品で讀者に傳えたかった(と自分が感じた)讀みかたをシッカリと示しているというところに自分は感動してしまったのでありました。山田正紀氏の某傑作長編に付された某氏の某解説とは大違いですよ、……って何で突然思い出したように今日こんなことを書いてしまったかというと、先ほど取り上げた山田正紀氏の新作を讀了したおり、この某氏の解説のことが頭をチラチラとしてしまったからでありまして。まあ、この點については分かる人だけ分かってくれればいいですよ(爆)。
という譯で、何だかダラダラと書いてしまいましたけど、結局何がいいたかったかというと、日本の文芸が「読み」の要素を軽視しようとも、讀者の方はプロの書評や時評の價値をシッカリと分かっておりますよ、杉江氏ガンバレ、ということです。しかしここで氏が述べている「日本の文芸」っていうのはいったいどういう世界なんでしょうねえ。