リアリズムの中の観念性。
譯あって再讀。今回は最初に買った光文社版ではなく、創元推理文庫版ですよ。以前取り上げた大傑作「危険な童話」も同時収録、さらには巻末に収録されている巽昌章氏の土屋隆夫論「肉体の報復」がこれまた大傑作と絶贊したいほどの素晴らしい論考でありまして、この二作と作者の風格を完全解讀。本作讀了後にイッキ讀みしたら感動もひとしおですよ。今買うんだったら絶對に創元推理文庫版ですかねえ。
千草檢事シリーズの一作でもある本作は、デパートのエレベータ内で私立高校の校長が臀部に毒物を注射されて殺されるという、ある種の密室状態での殺人を扱ったもの。死ぬ間際に男が呟いたという謎めいた言葉と、現場に落ちていた一枚の名刺だけを手懸かりに千草檢事たちは犯人を探っていくのだが、……という話。
この名刺がキモで、ある特徴からこの名刺を受け取った人物は數人しかいないことが捜査の過程で明らかになります。で、この名刺をもらった中の一人がそいつを旅先でなくしてしまったというから、もうこれで捜査は詰みかと思ったら、男には鐵壁のアリバイがあったというから捜査は暗転、果たしてこの鐵壁のアリバイを持つ人物を執拗に疑う千草檢事に反して、刑事がアヤしいと疑っていた女性が殺されるという第二の事件が発生するに至って、千草檢事は犯人のアリバイを突き崩すべく件の人物が事件当日にいたという場所に赴くのだが、……。
検事と刑事が手懸かりと証言を元に容疑者のアリバイを突き崩していくという、一般的な意味での社會派フウの展開を採りながら、時折挿入される少女の悲哀の物語が捩れた幻想性を釀し出しているところが素晴らしい。やがてこの物語の中で語られる少女がどういう人物であるのかは中盤に至って明らかにされるのですが、犯人と思しき人物、そしてこの物語の中の少女、さらにはこの犯人の手になるある物語がおしなべて戰後の影を滲ませているという趣向もいい。
戰後の影、なんていうといかにも陳腐に聞こえてしまうのでアレなんですけど、田舍の学生達が集團になってデパートを来襲する冒頭のシーンで高度経済成長期の日本の斷片をさりげなく描き、さらには被害者が身につけていた寫眞にメモ書きされていた1949年に絡めて下山事件を挙げたりとその時代の空気を感じさせる、さりげない描写も見事。
そして被害者の妻の半生が語られるあたりは、事件の深いところに欲情を絡めて物語を展開させる作者の風格が際だっています。農家に生まれたこの被害者の妻は、被害者と結婚する前に一度、知り合いのすすめで商人の家に嫁いでいるんですけど、仲人が無口なお坊ちゃっんですよ、なんていってすすめてくれたこの夫は先天的な白痴で、広い邸宅の中には別棟が用意されてい、彼女と夫の二人はそこに隔離され、……事件の核心にはそれほど關係ないこの女の半生はかなり壯絶。
そしてこのアンマリな生い立ちを聞きながら、千草檢事が未亡人の肢体をチラリと見やりつつ、白痴の夫と小柄で痩せぎすの被害者が交互に夫人の体にベタベタとまとわりついてくる場面を妄想したりするんですけど、このあたりの、物語の中にさりげなく言及される性と肉体への執着を巻末で巽氏が論じていて、これが見事。
「等身大の欲望を離れた、喪われたもの、形のないものへの觀念的な渇きを癒やそうとして現実の事件を引き起こしてしまう」という作者の作品のなかで繰り返し変奏される性のモチーフをすくいとり、そこから土屋ミステリの核心に迫ろうとするところが、ファンに堪らないところですよ。
やがて千草檢事の執拗な捜査によって、犯人のトリックは最後には暴かれる譯ですが、彼が會話の中で聞きつけたちょっとした話をヒントに、犯人の奸計を見破るというところには確かに論理の飛躍が見られ、このあたりが本格推理原理主義者にすれば絶對に許せないところなんでしょうけども、ひとえにこの物語の凄みを堪能したい本讀みにとってはそんなことはどうでもいいことでしょう。
黄金期の舞台を模倣しつつ安直な戦争批判をブチ挙げて、いかにも自分は社會派にも目を配りつつ推理小説を書いているんですよお、なんてかんじで他人の批判に勤しんでいる原理主義者には絶對に到達出来ない凄みが土屋ミステリにはある譯で、原理主義者は果たして「戰後」という言葉の重みを、犯人、被害者、そしてその全ての關係者も含めた登場人物たちの半生に込めながらここまで豐穣な物語をつくりだすことが出来るのかと思ったりする譯です。
その點、島田御大は唯一氣を吐いている譯ですけど、御大の場合、最後には「そっち系」の話に流れてしまうのがアレだし、……個人的には、この土屋ミステリの核心に近づくことが出来るのは芦辺センセじゃないかなあ、なんて考えているんですけど如何。
悲哀と鬼畜を織り交ぜて人間の業を物語に結実させる土屋氏に對して、人間のやさしさを信じるあたたかいまなざしが特徴の芦辺センセ、とそのあたりに違いはあるものの、本格ミステリの定石の中で人間を語り、そして豐穣にして凄みのある物語を紡ぎ出すという點で、二人の立ち位置は意外と似ているのではないかな、と感じた次第ですよ。
創元推理文庫でリリースされている土屋隆夫推理小説集成の中でも「危険な童話」と本作の大傑作を収録したこの第二巻は、土屋ミステリの入門書としても最適。巻末の巽氏の手になる土屋隆夫論を熟読して、この作家の凄みを体感してもらいたいなあと思いますよ。おすすめ。