「詹宏志の推理小説紀行、土屋隆夫氏を訪ねて 其の二」に續く第三回です。なかなか終わりませんけど、これ、讀んでいる人っているんでしょうか。もうこれくらいにしてキワモノミステリのレビューを續けた方がいいですかねえ、とかいいつつもとりあえず續けます(爆)。原文はこちら「詹宏志推理文學行旅.尋訪土屋隆夫」。では早速いきますよ。
詹「もう少し千草検事の同僚についてお聞かせいただけますか。
例えば大川刑事、野本警部、或いは「天国は遠すぎる」の久野刑事もそうですが、彼らは非常に實直で、こつこつと物事を為し遂げていく地味な存在ですよね。あなたの言葉でいうと、家を出る前にはいつも妻に何か一言いわないと気が済まないような、そんな人物です。
野本警部などは、一見すると汗をかいてばかりいる野暮ったい中年男性といったかんじですけど、その一方彼は非常に纖細で敏感な神経をも持ち合わせていて、さながら霧景色を前に一句を詠む詩人のような、とでもいえばいいでしょうか。
彼は非常に面白いキャラクターで、人間性も豐かな人物として描かれていますよね。彼の同僚が欧米の探偵とコンビを組むというのもおかしいしい、欧米の名探偵と助手のコンビとも違います。名探偵というのはいうなれば超人のようなもので、彼の助手というのは我々のような凡人の代表であるわけです。助手のいうことであれば、讀者もそれを讀んで納得できるし、名探偵がひとたび口を開くと、我々は自らが凡人であることを悟るわけです。
しかし野本刑事や千草検事はそのような方法を採りませんね。先生が先ほどいわれたとおり、皆で力を合わせて分業を行いながらも、彼らはそれぞれに異なった方法で捜査を進めていくなかで、次第に事件の核心へと近づいていく。こういった物語においては、一人だけが英雄のように突出する必要というのはありません。
こういった欧米とはまったく異なる探偵の造詣について、欧米との文化の差異というものを意識しておられますか?アジア(東方)の作家はこのような概念の相違を生み出すものでしょうか。また野本刑事のような人物をあなたはどのように考えておられますか?」
土屋「一般的な作品では、ホームズとワトソンのように探偵と助手という組合せで物語をつくりあげていく必要があるでしょうし、これは惡くはないと思いますよ。
それでも私は千草検事を生み出してからというもの、どんな人物にワトソン役を任せたものかと考えまして、それで野本刑事のような人物を思いついたのです。作品の中では、千草検事と野本刑事の會話のシーンにもっとも力を入れていますからね。
日本には昔から漫才というのがありまして、こういったものなんです。一人が何かもっともなことをしゃべると、それに相方がぼけてみせる。そこにまたツッコミを入れるという具合で、こんなかんじのものを私は小説の中で使ってみたらと思いましてね。
讀者が作品を讀んでいるあいだちょっとでも飽きてきたときに、野本刑事を登場させて、千草検事と漫才を始めたりすれば、讀者ももっと面白がってくれるんじゃないかなと。あれこれしているうちに、事件の真相に至る伏線をもさりげなく隠しておけば、さらに面白くなるでしょう。ですからきっと無意識の中ではホームズとワトソンの二人を思い描いていたに違いありません」
詹「これには何か原型のようなものがあるんでしょうか。或いは先生がご自身を投影されているということはありませんか」
土屋「いえいえ、とんでもない。彼らは私とは全然違いますよ」
詹「先生の作品の中ではたびたび日本の近代文学作品の引用がなされています。そうした作品との融合をはかりつつ推理小説に応用した著作の中では、特に「盲目の鴉」にその傾向が顕著ですが、私は先生の作品を讀むたびに、その日本文学に對する該博な知識と思いの深さに感心してしまいます。文学における修養を大衆文学に活かした作家というのは、そう多くはありません。
このような純文学が好きなあなたが何故大衆文学である推理小説を選ばれたのでしょうか。大衆小説の中に多くの純文学からの引用を行うことで、多くの讀者が興味を持たなくなってしまうようなことなどは心配されなかったのでしょうか」
土屋「私は三歳か四歳のときから讀者を始めて、多くの文学作品を讀みました。そのなかには文学全集といったものも含まれておりまして、三十册でも四十册でもいいからとにかくすべてを讀破しましたよ。
ですから私が小説を書いているときには、そのときの内容が頭の中にふっと思い浮かんでくるのです。あの作家はそういえばこんなことを書いていたな、とか、あの詩人はこういう場面をこういうふうに書いていたな、とか、かつて讀んだ内容が自然に思い出されるのです。
ですから思うに、私の作品の中にある作家の小説や詩句の引用は、自分の作品の色を出しつつも、さらにそこへ鮮やかな色彩を添えるようなものとでもいえばいいでしょうか。
そういった作家の文章を借用したり、少しばかり他人の作品を紹介したりするのは、面白いですよね。要するに、それらはおしなべて私の文學に對する愛が自然に表出したものだということです。
もう少しつけくわえるとすれば、私がかつて引用した作家は、自ら命を絶ってその生を終えた人物が多い。例えば大手拓次ですが、彼が耳が不自で、その一生は悲惨でした。彼のほかにも私が引用する作家はみな自殺しています。私は自殺した作家が好きなんですね(笑)」
詹「あなたの小説の中に取り入れられている時代風俗に關してですが、小説が書かれた當時を思い返してみると、それらは當時世間でも話題となったものばかりです。例えば人工授精や血液型などこういったものと、それを純文学の中に取り入れることは同じ方向を目指しているわけではないと思いますが、この點についてはどうお考えですか」
土屋「それはいわゆる「今」というものに関心をもっているからですよ。時代から切り離されたものを書くことは出來ません。それはほかの作家も同じだと思いますよ」
詹「あなたがそのような題材に至ったとき、それは新しくて話題になっているものだということですね」
土屋「それが現在を書くというのであれば、當然そうなるでしょうね」
詹「あなたは「天国は遠すぎる」(浪速書房版)のあとがきでこう書いています。「私はこの二つの合一を目指しているのだ」と。これは乃ち推理小説の中における文学性と謎解きの融合を目指すということですが、この言葉は日本の推理小説における本格派と社会派の対抗を髣髴とさせます。その対抗意識がついには融合を果たしたわけですが、このような推理小説の発展のなかで、二つのすべてを成立されるのは難しいことですよね。
本格ミステリの中で展開される世界は現實の世界に比較すると非常にシンプルです。謎解きに尽きるわけですから。しかし社会派は本格派と比較してみれば、世界を複雑に描いていくわけで、巧緻な謎解きを行っていくものとしてはふさわしくない。
ただ、両者の合一を目指すとはいえ、あなたの作品を見る限り、あなたはその一部を達成するとともに、よりリアルです。それでいて古典ミステリの醍醐味である謎解きにも注意をはらっている。そういった例は非常に稀少だと思うのですが、この點についてあなたの考えをお話しいただけますか。兩者の合一を行った創作の観點から何かありますか」
土屋「特にこれといったものはありませんね。以前松本清張について話しましたが、彼もまた私とともにそういった方法を試みようとしたわけで、私だけがやろうとしたわけではありません。多くの人がそういった試みを行っていたのです」(續く)