実をいうと今日は、藤岡氏の最新作「白菊」を絡めて、泡坂妻夫の諸作品について書いてみようと考えていたんですけど、何氣に氏の日記「日々是好日乎」を見てみたら、「達人」評について書かれていたから吃驚ですよ。
あの傑作長編に言及しているところからすると、恐らくはこれって自分の書いたこのエントリじゃないのかなあと思うんですけど如何。で、予定を変更し、今回は補足の意味も込めてもう少し「達人」について書いてみたいと思います。
これは完全に自分の書き方がマズかったんですけど、まずこの作品「達人」が評価されるべき理由の第一はそのネタがあの長編に先んじていたことにある、といっている譯ではなくて、その仕掛けを巧みに隠す語り口と伏線にあるということです。
これをキチンと書こうとすると、アレ系のことについてかなり詳しく説明を加えていかないといけなくなってしまうので、とりあえず簡單に述べますと、まずアレ系の仕掛けの場合、 何の伏線もなしにいきなりラストでその真相を開陳されてもまったく面白くない譯です。作者が仕掛ける、ということは要するに文体や小説としての結構も含めたその語りが大部分を占める譯で、そこが甘いといくら最後の真相解明に至って世界が反転されても評価は出來ません。
で、「六色金神殺人事件」や「達人」となると、これは特に短編である「達人」の方に顕著なのですが、會話の端々やシーンの描写の隅々に至るまで、眞實を隱蔽する為の語りの巧みさが際だっている。何処まで描くか、何を語らないか、或いはどのように語るかという點において、非常に文章が練られており、さらに主人公の人称や造詣に關しても考えられている譯です。
さて、ここで敢えて自分は「如何に描く」か、という點と「主人公の造詣」という二つに分けてこの作品の仕掛けを評価してみた譯ですけど、ここが自分としては結構キモでありまして、アレ系の仕掛けの場合、「主人公の造詣」というのは、トリックメイカーとしてのミステリ作家がアイディアを見せる「設定」部分。で、「如何に描く」かというのは、いうなれば「見せ方」という、これはどちらかというと作家としての文章力とか、小説としての技巧技術と密接に關わるものであるということが出來るでしょう。
例えば「達人」でこの主人公を太極拳の使い手としているところなど、これは密室トリックでいえば「ようし、この密室には針と糸使うぞッ」とかいうのにも似た仕掛けの「設定」です。しかしアレ系がこうした普通のトリックと大きく違うところは、仕掛けを思いついたあとの「見せ方」が惡いとその仕掛け自体がまったく機能せず、讀者は驚きもしない、ヘタするとその本はバカミスならぬバカ本として壁に叩きつけられるということにもなりかねない。
つまりアレ系の場合、この仕掛けの殆どは文章、構成といった小説の「見せ方」によるところが大きな違いで、少なくとも自分の場合、アレ系の作品が傑作か否かの基準というのは、この「見せ方」にほとんどすべてがかかっているといってもいい。
文章の一文一文、そして文章の章立ても含めた「見せ方」「書き方」が巧みかどうかによるのであって、実をいえばアレ系の「設定」に新味を求めるのはちょっと違うんじゃないかなあ、というのが現時点での自分の考えですよ。勿論、この「設定」は真相が明かされたときの世界の反転に大きく關わってくる譯で、勿論おろそかには出來ない譯ですけどねえ。
で、「達人」の場合、作者の藤岡氏が指摘している通り、先例がある譯ですが(阿刀田高の短編と氏がインスパイアされた作品いうのはちょっと分かりません。何でしょう?自分が記憶している限り高橋克彦の恐怖小説にも同じネタがありましたよ)、これはあくまで上にいう「設定」の話であって、本作がまず評価されるのは自分がレビューにも書いた通り「讀者を騙すための周到な語りが何よりも素晴らしい」ところでありまして。この文章の中の「何よりも」に注目。
これを書いたすぐあと、この作品の「設定」に關してあの長編を引き合いに少しばかり多くを語ってしまったところがちょっとマズかったかなあ、と反省する次第ですよ。ただあの長編作品がこの「設定」部分を主に評価されている一方で、本作「達人」は絶版となってしまったアンソロジーに収録されている短編ということで知名度が低い、どうにかしてこの隠れた名品に目を留めてもらう方法はないかと思案した結果、あの某長編に言及したという譯です。
それとあくまであの長編の「設定」と比較しての相對的な意味に過ぎないのに、「ようやく時代が氏の作品の先進性と奇天烈性に追いついてきたかんじがする」なんて軽い感じで「先進性」なんて言葉を使ってしまったのもマズかったという譯で反省しきり、ですよ(という譯で、「先進性」という言葉は削除しておきます)。
藤岡氏曰く、
従って、自分がリスペクトする、前例のあるトリックを、過大に評価されても面映いだけなのである。むろん、それは某傑作ミステリの価値を揺るがせるものではない。同じ趣向のトリックをいかに新たなストーリーに移植するかも、作家の才能の一つなのだから。
という譯で、自分としては、あのネタの「設定」というよりは、その「見せ方」という技巧面が優れている點において「達人」は傑作だと評価している、というのがこのレビューの趣旨であります。それと本旨からは微妙にそれますが、藤岡氏がここに書いている「同じ趣向のトリックをいかに新たなストーリーに移植するかも、作家の才能の一つなのだから」という點はその通りでしょう。これについてはここでも度々言及していますが、最近では柄刀一氏の「fの魔弾」を取り上げた際にも少しばかり書きました。
それとここでの藤岡氏の發言で面白いと思ったのは、何気に「新たなストーリーに移植するか」なんてさらりと書いているところで、仕掛けを物語に移植して緊密に連關させるというのは當にアレ系が目的とするところではないでしょうかねえ。また「白菊」では、ここでも繰り返し述べている通り、その仕掛けと全体を覆う漠とした印象が「白菊」というモチーフと結びついているところが巧みで、それ故に素晴らしい作品だと評価しているのですけど、ここでまたまた色々書いてしまうと、藤岡氏もイヤがるかもしれないし、……というか、ここ最近バカミス絡みで藤岡氏の作品に言及しまくっているので自分、かなり氏に嫌われていますよねきっと。まあ、これくらいにしておきますよ。
しかし、今回のエントリのネタは何というか、作者が「いや、あれはそんなに凄い作品じゃないよ。先例もあるし……」といっているのに、そこへ一ファンである自分が「そんなことないですよ!あれは傑作だと思います。何故なら……」と饒舌に語り、さらに作者の方が「そんなフウに過大な評価されても面映ゆいだけだよ」と辟易としているところへさらに「ですからあ……」なんていっているようで非常にヘンな感じがしますねえ(爆)。
まあ、そういう次第で、作者の藤岡氏は面映がっているんですけど、やはり「達人」は評価されるべき作品である、ということで。で、そんなアレ系の「見せ方」に冴えを見せる藤岡氏の「白菊」と、観客を意識しての手捌きや小道具の「見せ方」を競う奇術師としての一面もある泡坂氏の諸作品との共通性、というネタについて書こうとしたんですけど、多彩な作風を持っている泡坂氏のこと、「白菊」が泡坂氏の作品を髣髴とさせるといっても、そこに思い浮かぶ泡坂氏の作品というのは人それぞれだと思うんですよ。自分としては少なくと上に上げた「見せ方」に關する一點と、もうひとつあるんですけど長くなってしまうのでこの點についてはまた今度にしたいと思います。