いかにも作者らしい、初期「暗色コメディ」の系譜を繼ぐ佳作。
子供の頃から七度も殺され、また當に今、八度目に殺されようとしている「僕」が高校の教師に助けを求め、それを探偵役の女生徒とともに「僕」が誰なのかを探っていく、というのですからもう。
いつもの作者らしくないなと思ったのは、本作、章節を分けることなく、いきなり1とふられたところから物語が始まるところでしょうか。
同じ夜に同じ女性が何度も殺される、というこれまた奇妙な設定に、いかにも凝った仕掛けを施して驚かせてくれた「私という名の変奏曲」などは、「私」「発見者」「警察」「容疑者」「誰か」というように語り手の名前を配して章ごとに畫然と物語を分けていた構成を採っていましたが、本作にはそれがありません。
「僕」の手記、そしてこの「僕」の正体を突き止めようと奔走する教師の横田と女生徒直美のパート、さらには時折挿入される「僕」のモノローグが渾然一體となって物語は進んでいきます。
冒頭、「どこまでも殺されていく僕がいる。いつまでも殺されていく僕がいる」という不可解な語りから始まる手記で、「僕」は子供のときから七度殺されていると語ります。六歳のとき桜の季節に絞殺され、十二歳のときには放課後のプールで學校の教師に、さらには中学のときには東京駅でホームから突き落とされ、……というように殺された情景がここでは淡々と語られていきます。
そしてこの手記を經たあと、教師の横田に「助けてください。殺されかかっているんです。僕」という電話がかかってくるところから物語は轉がり始めます。そして横田はちょっと大人ぶった女生徒の直美とともに樣々な手を凝らして、この「僕」の正体を突き止めて事件を食い止めようとします。
その過程で明らかになっていく冒頭の手記の眞相、そして過去にあった七度の殺人の意味するところと、今まさに起ころうとしている八度目の事件との關連は何なのか。そして手記のなかにあった最後の事件、乃ち七度目に「僕」が殺された事件がこの後の展開に大きく關わってくるのですが、このあたりの謎解きの過程がいかにも連城らしいです。
本作には、中期の作者の作品に見られたような、虚實が節ごとに反転していくような目まぐるしい展開は見られません。寧ろ靜かな狂氣が全編を覆っていて、それが冒頭の手記のなかの満開の桜の情景などとともに幻想的な雰囲気を引き立てているのが印象的です。
しかしそういう詩情溢れる情景以上にミステリ讀みとして氣になるのはやはり手記やモノローグをところどころに挿入して物語を展開させていくという構成でありまして、手記とモノローグがあるからには當然、アレ系の仕掛けを疑ってしまいますよねえ。
實際、モノローグの語りにはそれらしい仕掛けが施されているのですが、本作の場合は寧ろそこから生じる、いかにも連城的といえる逆説的な転調が本作の見所でしょうか。
この逆説的な転調というのは、作者の作品では樣々なかたちを取って現れます。例えば「終章からの女」ではそれが因果の転調というかたちで、そして「暗色コメディ」では狂氣と正氣の反転というふうに。
このあたりが普通の本格ミステリに留まろうとしない作者の風格でありまして、初期の作品を讀んでみれば明らかなとおり、作者は普通の本格ミステリ的な物語を書こうと思えば全然余裕で書ける筈なんですよ。しかし敢えてそういう普通の話は書こうとしない。その偏屈さが自分的にはいいんですけど、……やはり一般受けはしないでしょうねえ確かに。
初期の連城の作風、特に花葬シリーズなどに見られる美しい構成のミステリが好きな方などは、最近の作者の、いかにも捻くれたミステリに今ひとつ滿足出來ないのでしょうけど、作者の出自を見れば氏がそんな正統正調のミステリの作風に留まっていられる筈がないことは明らかでしょう。
「幻影城」といえば昨日の「甦る「幻影城」〈1〉新人賞傑作選」でも取り上げた通り、變格、本格、推理小説フウ、幻想ミステリと要するに何でもあり、さらには作者の處女作である「変調二人羽織」もまた斷じて普通のミステリではなかった譯で。
メジャーなことが出來るのに敢えてマイナーでいくみたいな、連城氏のこういうところに自分は痺れてしまうんですけどねえ、果たして本作も普通のミステリファンに受ける作品であるかどうかは微妙なところでしょうか。
ところで本作のオチは新本格の某作家の某有名作品に酷似していまして、この作品の名前は勿論のこと、作者の名前をいうだけで分かってしまうと思うのでここでは言及しない方がいいでしょう。
あちらの作品の場合、最後の最後で讀者を驚かせる、いうなれば吃驚箱のような仕掛けになっていたのに相違して、こちらは推理の過程で明らかになる逆説的な転調を絡めて、犯人の内奥に沈んでいる靜かな狂氣を際だたせているというところが大きな特徴でしょうか。だから實際、初讀の時も、大きな驚きはなかったです。
もっともあちらの作品の場合、犯人の独白が物語の大半を占めていた譯で、「僕」の手記とモノローグが要所要所に挿入されているだけの本作とはその構成からして異なっています。作者もアレ系の仕掛けで驚かせてやろうというつもりはなかったのかもしれません。もしそれをやるのであれば、あの作品と同じように、「僕」の語りの比重をもう少し増やしていった筈ですから。
構成という點でいえば、プロローグの手記が変奏され最後のエピローグでもう一度語られるという構成が見事。でもこの最後の手記にはちょっと謎が多いですねえ。確かにここでは事件の眞相が語られているのですが、よくよく考えるとこの手記をこのようなかたちで改変したのは誰なのか。それともこれはあくまで「僕」の頭のなかの出來事なのか、だとしたらこの物語そのものも「僕」の空想に過ぎないのか、……とか。まあ、作者もそこまでは考えていないんでしょうけど。
ミステリとして、アレ系の仕掛けの強度はそれほど強くはないのですが、「私という名の変奏曲」や「終章からの女」にはない幻想性が強く感じられる佳作。短いので結構簡單に讀むことが出來ると思います。