坂口安吾の「不連続殺人事件」に續いて、純文学作家の書いたミステリ、ということで本作を取り上げる譯ですが、同時に、先のエントリで予告した通り、戰中の事件を動機に据えたミステリとしてのお手本とはどのようなものか、というのを示すべく、今日は遠藤周作の手になる本作を。
遠藤周作といえば、「沈黙」「侍」をはじめとする基督教的世界觀を持った純文學の書き手である同時に、かの戦争と人間の心の暗黒を描ききった「海と毒薬」の作者としても有名でありましょう。
その一方で、以前取り上げた筒井康隆編「異形の白昼」というアンソロジーでは「蜘蛛」という不氣味な短篇を描くことも出來る多才ぶりを見せつけてくれています。
そんな氏が手がけた唯一の長編推理小説長編ミステリがこれ。
探偵役は神經科醫の合沢で、稻川圭子という女性が婚約者のことで彼を訪れるところから物語は始まります。圭子の婚約者、樹生の三人從兄はそのいずれもが幸福な家庭を捨てて失踪しており、彼は自分もいつか突然姿を消してしまうのではないか、という不安にとりつかれているという。
合沢は茨城新聞の社会部に勤める藤村とともに失踪した三人について調査を進めていくのですが、その過程で、かの戦争にまつわる事件が浮かび上がってくる、……という物語です。
実はこの事件の動機に深く關係している戦中の事件というのは、最後の最後になってあきらかにされます。このあたりも「天に還る舟」と同樣、すべてはその陰慘な事件に對する復讐譚となっているのですが、本作が大きく異なるのは、この犯人の狂的ともいえる執念とその怨念の深さです。
周到に錬られた完全犯罪。そして戰中の出來事を一連の事件の背景に据えながらも、作者は徹底して人間の弱さと惡というものを炙り出そうとします。そこには安っぽい政治的意図などカケラもなく、探れば探るほどその惡の樣相の凄まじさを知るに至る人間の業の深さばかりが際だちます。
人間の内面を描き切ろうとする作者の意図に附合するかのごとく、事件に用いられる方法はあまりに單純ながらも狡知を極めていて、犯人は遂に完全犯罪を遂げてしまいます。
探偵役の合沢は事件の背後にある闇を探り當てることは出來ても、それを阻止することは出來ません。全てを犯人の思いのままに操られて呆然とする探偵達を尻目に、狡猾な犯人は自らの惡の正當性を高らかに主張してこの物語は終わります。このあたりもちょっと普通のミステリとは違う讀後感を抱く所以でしょう。
後期の作者は、わかりやすい基督教的文學からさらにその高みを目指して、人間の根元的な惡、そしてそれに対峙すべき神の存在を問いかけていくような作風に転化していきましたが(って、一介のミステリ讀みが純文學相手にこんな大ボラを吹いていいのか)、その萌芽はすでに本作に祕められていたといってもいいのではないでしょうか。
本作で用いられるトリックには先例があるものの、ここまで巧緻にかつ大胆に取り上げた作品は本作が初めてだと思います。またこの單純極まるトリックが、犯人の執念と怨念の深さと相反しているところに不氣味さを感じるんですよねえ。
この犯人がやり仰せた完全犯罪は、ある意味非ミステリ的ともいえ、それがまた純文學畑の氏だからこそ可能だったトリックともいえるでしょう。アンチ・ミステリ、というほど大袈裟なものではないのですが、普通のミステリ的な着地點を目指した作品ではないです。それでいて、人間の心の暗黒をこのような事件と結びつけて書ききった本作は、ミステリとして眺めてこそ、俄然と輝きを増してくるというのもまた事実。
このかくも執拗にして巧緻を極めた完全犯罪、そしてこのような狂氣を創出する至った戦中の出來事、更には恐ろしいほどの執念をもってこの完全犯罪を爲し遂げた犯人像。これらはすべて分かちがたく結びついており、そのどれひとつとしても他のものに置き換えることは出來ません。
このトリックが普通のミステリにありがちな仕掛けであったなら、讀者はこの犯人の心奥にある暗黒にここまで戦慄することはなかったに違いなく、またこの戰中の事件があったからこそ、これほどまでにおぞましい犯人の姿を創出することが出來たのでしょう。その意味では、戦中の事件は單なる逸話にとどまるものではなく、十分な必然性がある譯です。
南京事件なんて安いネタを使っているようではまだまだですねえ。かの戦争を俎上にのせるのであれば、本作のように透徹した惡を描ききる覺悟で、プロットを練り上げてもらいたいものですよ、小島先生、……って今回は大きくでましたけど、それだけ自分は小島正樹氏には期待している譯で。
羽純未雪が同時期に「碧き旋律の流れし夜に」という佳作でソロデビューを果たし、堂々とした風格を見せている一方で、小島氏のデビュー作は御大との合作、そして例の南京事件、百人斬りを取り上げたりと、どうにもハタから見ていると何だかなあ、という感想を抱かせてしまうところが勿體ない、と感じているんですよ。まあ、自分のようなプチなブロガーが新人作家の心配をするなんて餘計な御世話なんでしょうけどねえ。
閑話休題。
本作は探偵役が精神科醫ということ、また古い小説ということで、精神醫學として取り上げられるネタには些か首を傾げてしまうところもあるものの、そのいくつかは探偵役である合沢の機転によるものだということがあきらかにされるのでよしとします。
本作の見所はそんなところにあるのではなく、この犯人、そしてその動機、さらにはこの犯人のかくも凄まじい怨念を生み出すに至った事件の背景にあるのですから。
という譯で、本作は、犯人のおぞましさという點ではある意味究極。純文學作家のミステリとしても當に異色で、坂口安吾のようなゲーム性はカケラもありませんが、それでも傑作であることには間違いありません。おすすめ、なんですけどもまたも絶版ですか! 何か最近このオチが多くてアレなんですけど、次回から最近の作品に戻るとします。
[03/22/06: 追伸]
本エントリの「唯一の長編推理小説」という言葉に對して、加賀美氏から「悪霊の午後」や「白昼の悪魔」などほかにもミステリ的要素がある作品があり、「唯一」とはいえないのではないか、との指摘がありました(詳細はコメント覧を參照のこと)。確かにその通りで、このエントリを書いた時、自分は完全に「悪霊の午後」を失念しておりました。「唯一」を削除するととともに、「推理小説」を「ミステリ」と修正しておきます。