やっと讀めました。
谺氏の作品のなかで唯一讀み逃していた本作ですが、ようやく讀むことが出來ましたよ、というか、これ何で文庫落ちしていないんですかね、本當に、……と思いつつよく見ると、リリース元は講談社ですか。
鮎川哲也賞授賞第一作が創元推理ではなく講談社からっていうのは、谺氏と創元推理のあいだで何かあったんですか、と勘ぐりたくなってしまうのですが、とにかくこういう傑作がたまたもや絶版同樣の状況に陥ってしまっていることに激しく疑問を感じるのでありました。
本作は鮎川哲也賞授賞となった處女作「未明の悪夢」よりも先に書かれていたものだと記憶しているのですが、登場人物の造型など、「未明の悪夢」から「赫い月照」へと至る雪御所圭子三部作との類似性を濃厚に感じさせる作品です。
探偵役は調査事務所に勤める緋色翔子。
十年前の岡田有希子の死。その後を追うように自殺した姉。翔子は何故姉は自殺したのか分からず、その謎に取り憑かれてしまっている、……というところは、兄の事件をきっかけに人間の心の深淵と謎解きに魅入られてしまった雪御所圭子を髣髴とさせます。
矢貫馬遙というアイドル歌手の死をきっかけに、十年前の岡田有希子の死のときと同樣の、ファンによる後追い自殺が續きます。この遙の死が當に谺氏の他の作品と同樣の、度膽を拔くような奇天烈さで、ビルから飛び降りた遙はその場所で失踪し、その後、失踪場所からは大きく離れたところに建っていた巨大なクリスマス・ツリーの上でバラバラ死体となって発見されるというもの。彼女はどうやってビルの屋上から消えたのか、そしてどうやってツリーの上にバラバラ死体は出現したのか、……この謎を緋色翔子と、ちょっとした事件がきっかけで知り合うことになった冬木絵梨とともに探っていくという展開です。
本作が他の谺作品と異なっているのは、くどいくらいに登場人物のたちの生い立ちが描かれているところでしょうか。確かに「未明の悪夢」や「赫い月照」でもそういう記述は他の作家のものに比べて格段に多く、それがまた谺氏の小説の特徴でもある譯ですが、本作におけるこれはもう、執拗というくらいなんですよ。
本作のヒロインである翔子は勿論のこと、死んでしまう少女たちのようないわゆる捨てキャラまでもがこんな調子で描かれているのです。勿論このバランスを大きく欠いた構成には意味があって、本作のテーマとも密接に關連しているのですけども、このあたりを理解出來ないと、本作は地の文ばかりが多い冗長な小説というふうにとられてしまいます。
何か自分のような人間が作品のテーマをくみ取ってここに書くのもアレなんですけども、本作の場合、「大量死の中における一個人の人間の死」みたいなものが主題になっているように思うのですが如何。
自分に存在価値を見いだせないような少女が簡單に自殺しようとするこの現代において、一人の人間の死に拘泥することに果たして意味はあるのか、……みたいなまあ、笠井潔に語らせたら自説を交えてブ厚い本を一册書いてしまうんじゃないか、っていうようなことが物語に通底している譯ですよ。
だからこそ、一人ひとりの人間についても、それが作者によって捨てられてしまう運命にあるととはいえ、シッカリと書き込みをしておかないといけない必然性があるのだ、と。
色々と皆さんの感想を讀んでみると、「こういう家庭環境で育つとこういう性格になるとか、こういう事件を体驗するとこういう人間になってしまうみたいな類型的なとらえ方でしか人間を見ていない、そこが浅いというかイヤ」みたいな意見が多いんですけど、まず本作の場合、こういう感想とはまったく正反對のことが描かれているんですよ。そこが誤解されている。
例えば、翔子はこの事件の謎を解いたあとも、結局自殺をはかった姉の心の深淵に辿りつくことは出來ません。「姉がどうして死んだのか、今になっても翔子にはわからない。おそらく一生わかる日など、訪れはしないのだろう」といい、それでも生きていくのだ、と翔子が決意するところで物語は終わります。
この肯定的な終幕は「星の牢獄」ほどではないにしても、雪御所三部作が谺氏の風格だと思っていた自分にとっては意外でした。本作が「未明の悪夢」よりも前に書かれた作品だとしたら、生を、そして人間を肯定的にとらえようとする「星の牢獄」や本作のような作風の方が谺氏の本當の姿なのかもしれません。
このへんが讀者にうまく傳わっていない、というか讀みとってくれるひとが少ないところが作者の不幸というか何というか、……自分にとってはもどかしいところですよ。
「星の牢獄」と同樣、物語は直線的に進むのですが、ぎっしりと地の文に描かれた登場人物の経歴なども含めて、讀み通すのは結構苦勞します。高村薫っぽいというか。
ただ、だからといって讀者が作者に從う必要もない譯で、この物語には二通りの讀み方があると思うのです。
ひとつは勿論作者の提示した主題に從って、登場人物各人の生い立ちすべてをしっかりととらえる為にも、その文章をしっかりと讀み解いていく方法。
そしてもうひとつは、いたって簡單な方法です。地の文に書かれている登場人物たちの生い立ちの文章などは徹底的に無視して讀み流すこと。それは乃ち大量死の現実に死の感覺が麻痺してしまった現代に与することでもある譯ですけど、そうして物語を終盤まで讀み進めたとき、物語のなかで捨てられるように死んでいった少女達の口から意外な眞相が語られ、彼女たちの死を無視していた讀者ははっとさせられることになります。
これは作者の期待している讀み方とは違うと思うのですが、終盤に至ってこちら側にいる讀者が登場人物に告発されるというという趣向は「虚無への供物」に近いです。アンチ・ミステリ的というか。地の文を讀み通すことが辛い方、是非ともこの方法で最後まで讀んでいただきたいと思いますよ本當に。
ミステリとして見た場合、二転三転する謎解き、そしていくつかの古典的なトリックを驅使した出來映えは素晴らしく、自分もアレの正体が実はアレだったとか、このあたりは完全に騙されてしまいました。奇想の謎解きも、後半に入るまでに提示されたものだけでもかなり上出來なものなのに、それをまた最後に至ってひっくり返すところなど、好き者には堪らない展開となっています。
勿論本作はひとつの作品として完全に完結している譯ですけども、谺氏の他の作品とも微妙に繋がっています。例えば後半の震災は勿論「未明の悪夢」に繋がるし、本作の主題は「赫い月照」の謎解きも部分にも大きく關係しています。
「赫い月照」は現時點における谺氏の作品の集大成的な意味合いを持っていると思うのですが、本作は「赫い月照」に至るまでの習作ではなかったのかな、という氣もするんですよねえ。
というのも、まず上でふれた通り、登場人物の造型です。本作の探偵役である翔子は、雪御所圭子ほどではないにしても、育った家庭と家族の事件が大きな心の傷となっているところが同じです。
そして彼女の身にふりかかった事件を知悉していて、彼女を見守ってくれている役として、本作では彼女の勤める事務所の所長である中山。雪御所三部作ではその役を刑事である鯉口が擔っています。
本作が翔子の視點から語られる一方で、雪御所三部作ではワトソン役である有希が語り手となって話が進むところから、本作では彼のような役回りはありません。まあ、ここは大きな違いでしょうか。
そして犯人の心の深奥に至ることは出來ず、登場人物たちは犯人の犯行動機を類型的な解釈でしかとらえることが出來ないところも同じ(勿論これが間違っていることを登場人物たちは自覚している)。本作の場合、犯人よりも寧ろ、殺されたアイドル、矢貫馬遙の本當の姿が謎解きの終盤に至って明らかにされるのですが、これがまたいかにも京極夏彦あたりが取り上げそうなものでして。でも谺氏が書くと讀者からはよく分からない、何だか紋切り型でつまらないということになってしまうんですよねえ。
まあ思うに、京極作品のようなユーモアや明るさがないところが最大の問題でしょうか。
主人公を初めとして、登場人物すべてが重い心の闇を抱えて苦しんでいる譯で、じっくりと讀むのは確かに辛いです。全然気軽に讀めないです。まあ、こういう自分の持ち味を十分に理解しつつ、これを渾身の力でミステリの器に叩きこんだのが、本作や「赫い月照」なのでしょう。だからこの二作はある意味、究極。
それでも「赫い月照」と異なるのは、上にも書いたようなこの肯定的な終幕です。つまり重厚ダウナー系のエッセンスのすべてを投じて仕上げたのが「赫い月照」だとしたら、本作のこの部分は、「星の牢獄」に引き継がれたというふうに考えることも出來ますよねえ。
谺氏初心者にはちょっとすすめられませんけど、「赫い月照」を傑作と認めてくれる極々小數のミステリファンの方にはマストかと。