非常に面白かったです。堪能しました。主人公であるオスロフ、そして彼が敬愛するピョートル・デミアノヴィチの造形も素晴らしく、ロシアの壯大な歴史の隱された一面を照射した物語はさながら一編の映畫のような面白さ、……だったのですけど、これは斷じて「本格ミステリ」じゃないですよねえ。
本編は三百七十頁からなる長編なのですけど、殺人事件が起きるのは二百八十頁を過ぎてからですよ!この密室殺人も容易に犯行方法が明らかになってしまうようなもので、まさにとってつけたようなチープさなんですよ。
嗚呼、しかしそれでもオスロフとピョートルという、この魅力的な登場人物を配して展開する物語が面白すぎで、自分には本作をつまらない、ということが出來ないのであります。
物語は第一部「ペテルブルグ」と第二部「不調和の環」から構成されているのですけど、第二部に入ってから物語が激しく転調するというものでもなく、あくまで二十世紀初頭の露西亞の歴史に從って肅々と進んでいきます。肅々、とはいってもこのころの露西亞といえば當に激動の時代、面白くない筈がありません。
ラスプーチンの暗殺、三月革命、ボルシェビキの臺頭。こういった歴史的背景を軸に据えた本作は、主人公オスロフがトロイツキー橋から飛び降り自殺しようとするところを、ピョートル・デミアノヴィチに助けられるところから始まります。
ピョートルは數々の著作をものにした「ロシアきっての気鋭の思想家であり著作家」であり「ロシアの神秘思想家としては将来がもっとも嘱望される、第一人者」。で、オスロフは以前彼の講演會に出席したことがあるのだった。
これがきっかけで、オスロフはピョートルの主宰する勉強會に出席するようになります。しかし彼の前にGと名乘る胡散臭げな神秘思想家が姿を現し、ピョートルは彼の壓倒的な思想に魅了されてしまう。このGが登場するあたりから物語が転がっていきます。
Gを怪しげな香具師と見ているオスロフはどうにかして敬愛するピョートルをGから引き離そうとするのですがそれも叶わず、オスロフとピョートルたちは露西亞の激動する時代に翻弄されながら、ボルシェビキを背後で操る陰謀劇に卷き込まれていく、……という話なのですが、とにかく健氣なオスロフと卓越した才能を持ち乍らも、それを香具師に利用されてしまう純眞過ぎるピョートルという對比がいい。
そしてこの物語がとにかく讀ませるのですよ。解説とインタビューを讀むと、このピョートルはウスペンスキーという実在の露西亞の思想家をモデルにしたようなのですけど、自分は知らないので、Gのモデルとなっているグルジエフとウスペンスキーの確執というのもよく分かりません。
それでも物語の要所要所にかいま見えるピョートルやGの思想はなかなか興味深く、これはミステリの流れからは完全に解離しているものの、これはこではかなり讀ませます。
そして第二部、ボルシエビキの叛乱から逃れるようにオスロフとピョートルを含めたGのグループはペテルブルグから逃れていくのですが、このあたりの話もさながら映畫のようにスリリングなんですよ。
しかしねえ、いかんせんミステリとしての事件が起こるのは上にも書いたように、最後も最後、頁をあと百頁を殘したあたりでようやくですから。これ、普通の本格ミステリだったら、もう解決篇に入るってところですよねえ。
それで出て來た事件があの密室殺人で、謎解きもえらくあっさりしていてときてはもう、本格ミステリとして評價するには躊躇ってしまうというものです。
勿論探偵役はかのピョートルなのですが、彼の推理もスッキリサッパリ、一つの事実を指摘してそれで片が付いてしまいます。その前に、オスロフの提示したエニアグラムによる事件の謎解きは結構面白かったのですけど、これはあくまで虚假威しに過ぎません。
そんな譯で、本格ミステリとして見た場合、本作は完全にいただけない作品となってしまうのですが、とにかく物語としては當に一級品の面白さなんですよ。そこが評價に困るというか。
神秘主義、二十世紀初頭の露西亞、そして魅力的な登場人物。全てが完全にツボだったこともあって自分としては非常におすすめしたい物語なんですけど、本格ミステリ・マスターズの一册としてリリースされている以上、やはり本格ミステリとしてはどうなのか、というところをレビューしないとダメですよねえ。
自分も最初のあたりは、いったいいつになったら人が死ぬんだろうなんて訝りながら讀み進めていたんですけど、物語を半ば過ぎても何も起こらない。さすがにこれはおかしい、と今度は本格ミステリ・マスターズというこのシリーズの「特徴」を考えて、待てよ、もしかしたらこれには壯大なアレ系の仕掛けがあるんじゃなかろうか、と思いなおして再び讀み始めたのものの、各章の視點もぶれていないし、人稱から時制からすべてが整然としているし、……なんてかんじで、結局本格ミステリとして讀むのは諦めて、虚心坦懷に作者の描く物語と向き合うことに決めました。
で、最後の最後になって申し訳程度に人が死んで、事件が推理されて、解決してしまったもんですからちょっと呆氣にとられてしまいましたよ。
最大の問題は本作が本格ミステリー・マスターズからリリースされているということでしょうか。だってねえ、繰り返しになりますけど、これは本格ミステリじゃないですから。
どうもこのシリーズ、前回取り上げた恩田陸の「夏の名残りの薔薇」といい、本格ミステリとは呼べないような作品も混ざっているので困ります。
たとえ傑作であっても、本格ミステリを期待しておいて、それが本格ミステリらしい愉しみかたの出來ない小説であったらやはり肩すかしを食らってしまう譯で、そこのあたりはもう少し出版社及び編集者の方々も考えていただきたいものです。
本作だってこのシリーズからリリースされていなかったら、こんなふうに「本格ミステリではないから……」なんて言葉を入れずとも手放しで絶贊できたのにと思うと複雜な氣持ですよ本當に。
本格ミステリにこだわらず面白いものだったら何でもオーケーという御仁にはおすすめしたい小説。間違っても本格ミステリ・マスターズという意匠に騙されてはいけません。