傑作、駄作と皆さんの意見が結構分かれていた為に手に取るのを躊躇っていた本作、いざ讀んでみればなかなかの作品じゃないですか。
もっともポール・オースターの「ニューヨーク三部作」にインスパイアされた、ってところだけ見たって、自分のような人間は絶對に讀むべき小説だったのだろうけども、いかんせん色々な小説とは關係ないところが妙に氣になってしまいまして、ずうっと後回しにしていましたよ。
そんな自分の背中を押してくれたのが、最近の氷川センセのお言葉でした。「天の前庭」を作者からもらったセンセいわく、本作を「とても高く評価してい」て、「原書房『2005本格ミステリ・ベスト10』のアンケートで3位に推薦したくらい」だっていうんですからこれはもう讀まない譯にはいかないでしょう!
自分がゲットしたものはジャケ帶が拔けてしまっていたのですがこれってリリースされた當事、笠井潔の解説のなかの一文、「物語の後半、サスペンス小説的な雰囲気で二つの謎を追究する『ヘビイチゴ・サナトリウム』は、後半で一転、密室殺人を焦点とした本格ミステリに変貌する」というのがジャケ帶についていませんでしたっけ。
實際はちょっと違っていて、本作が「密室殺人を焦点とした本格ミステリ」へと転換を遂げるのは最後も最後、あと二十頁ほどを殘したあたりでのことなので、この「変貌」を期待すると肩すかしを食らうことになります。
本作はオースターの名前を明示してあるように、本格ミステリではありません。何となく自分は竹本健治の「失楽」を思い浮かべてしまいましたよ。風合いは大きく異なるものの、青春小説的な要素や或る者の操りが事件の全容に大きく絡んでいるあたり、何となく竹本健治的な變格の香りを濃厚に宿している物語のような氣がするのですが如何。
事件の舞台となる學校。かつて飛び降りのあった現場を見上げる「わたし」の視點で描かれたプロローグを過ぎると、第一章「幽靈」からは基本的に女子學生である海生の視点から物語は進むのですが、時折ここに教師である宮坂の独白が挿入されます。
校舍から飛び降りをした江崎ハルナと、彼女を取り卷く美術部の人間關係などが海生の視點から語られていくのですが、このほかにもハルナの幽靈を見たという噂などを絡めて、飛び降り事件の概要が徐々に明かされていきます。同時に宮坂のパートでほのめかされている小説がこのあと重要な鍵を握っていることが分かるのですが、この時點では今後の物語にどう關連してくるのかは見えてきません。
やがて宮坂が同じように校舍から飛び降り死体となって発見される第二章「鍵のかかった部屋」からは、連続する飛び降り事件と、宮坂が書いていたと思われる小説を絡めて、小説の作者を巡る物語へと變転していきます。
果たしてハルナの飛び降りと宮坂の飛び降り事件は連關しているのか。そして皆が見ていたというハルナの幽靈の正体は、という謎は後半になって明かされるのですが、小説の実作者のほうはなかなかに錯綜して出口が見つかりません。本作の場合、飛び降り事件よりもこちらの謎解きに比重が置かれて話が進んでいくのですが、最後の最後でこの作者を巡る謎と、飛び降り事件が繋がります。
ハルナや宮坂の周囲の人間關係が明かされていく過程が些か唐突なのと、最後の方の謎解きが少しばかり驅け足になってしまっているのがアレなんですが、それでも笠井潔が解説で述べている「自分と他人の境界のくずれ」という主題はうまく描かれていると思います。
ただこの解説で不思議なのは、「境界のくずれ」というものにシッカリと言及していながら、それを何故錯綜した構造と來歴を持つ作中作と、海生や高柳の存在する小説内部の現実、この二つの世界の「境界のくずれ」についてはふれていないのでしょう。
「自分と他人の境界のくずれ」っていうのは正直に告白すると、自分的には些か陳腐に感じられてちょっとアレでしたよ。
本作の場合、「自分と他人の境界」云々というよりも、ホームページに掲載していた小説の斷片じたいが既に匿名性を帶びている譯で、本作が作中作を巡る物語だと考えれば、「自分と他人」という關係性よりも、この匿名性に着目して物語の趣旨を説き明かしていくべきなんじゃないかなあ、と思ったりしました。
要するに作中作のキモはその匿名性にあり、物語の斷片が次の作者へと繼承されていくにつれ原典の姿が不明確になっていき、海生や高柳がこの作者の正体を解き明かそうとすればするほど、小説内の現実が搖らいでいく譯です。そして彼らのいる小説内の現実が、最後には「ヘビイチゴ・サナトリウム」という小説構造の外層に取り込まれてしまう、……という構造が自分的にはかなりツボだったんですけどねえ。
眞犯人がこの作中作の内容を現実化させようとすることで、虚構と現実の境界が搖らぎ、反転する、というあたりが竹本健治的というか。「匿名性」、「虚實の搖らぎ」、そして「操り」の三つが最後に連關していくところがいい。
最後の密室の謎解きは上にも書いた通り、かなり驅け足で展開するので、本格ミステリファンはちょっと、というか全然滿足出來ないでしょうねえ。この「変貌」が物語の半分あたりでなされていたら、本作の風格もかなり變わっていたことでしょう。
寧ろこちらのほうが「ミステリ・フロンティア」というシリーズにはふさわしい構成だったのではないかと思うのですけどねえ。或いはこういう本格ミステリ的な要素は捨てて、錯綜する作中作で最後まで押し切った方が潔かったのではないでしょうかねえ。
それでもこの變格の香りが濃厚な雰囲気は捨てがたく、オースターの小説から触発されたとはいえ、十分に作者の風格を確立しているし、これは新作の「天の前庭」を讀んだ方がいいでしょうか。
それと作品そのものとは全然關係ないんですけど、「動物化する世界の中で」での笠井潔と東浩紀の凄まじいすれ違いを知っている自分としては、本作の解説をどういう過程で笠井潔が請け負うことになったのかちょっとばかり興味がありますよ。