前回からの續きです。
その他にも二階堂氏の発言の中には自分が理解出來ない項目がたくさんあって、例えば、氏は自分が書いている小説は有栖川氏や芦辺氏のものと同樣、本格推理小説である、みたいなことをいっているんですけど、自分の頭の中では二階堂氏の立ち位置っていうのは芦辺氏有栖川氏とは大きく違っておりまして。
例えば芦辺氏の「紅楼夢の殺人」は氏の代表作のひとつだと思うのですが、これなどは完全に從來の本格ミステリの枠組みから逸脱した作品だと思う譯です。と同時に從來のミステリの枠組みを變えてしまうような力が込められている。ここに本格魂を感じるのですよ。
また有栖川氏の「幻想運河」も「紅楼夢の殺人」ほどの破壞力はないものの、幻想に寄り掛からないと眞相が見えてこないという反推理的手法が採られているという點でも、明らかに、そして確信犯的に、本格ミステリというジャンルからの逸脱を試みている傑作だと思うのですが如何でしょう。
飜って二階堂氏が本格ミステリのジャンルを逸脱、破壞してしまうような作品を書こうとしているかというと、そんなことはないと思うんですよねえ。氏の持ち味というのは、かつての乱歩的世界と懷かしき本格ミステリの形式の巧みな模倣にあって、氏を芦辺氏や有栖川氏のように本格ミステリの最先端を目指しているような作家であるとは思っていないんですけど、違うんでしょうか。
まあ、その他にも疑問はたくさんあって、とりあえず自分が色々と理解していかないといけない内容というのは以下の通りでして、
疑問其の一
二階堂氏曰わく、「弥勒の掌」は紛うことなき本格の傑作とのこと。自分もこの作品には濃厚な「本格魂」を感じた譯で、本作が本格ミステリであることに疑いはありません。しかしこの作品には探偵役の存立に関して瑕疵があると認めつつも本格推理小説であるといい、その一方で、「容疑者X」では讀者に對する手掛かりも証拠も充分でないと、本格推理の要件の3番目に瑕疵がある故にこの作品を本格推理小説ではないといっている。「弥勒の掌」の瑕疵は認められ、「容疑者X」の瑕疵が認められないのは何故か。
この二つの相違は瑕疵の量的な問題なのか、それとも要件の特色によるものなのかが分かりません。また量的なものだとしたら、その瑕疵が認められるボーダーっていうのはどのあたりにあるんでしょうというところも自分は理解出來ていません。
疑問其の二
「本格推理15」を讀む限り、推理型の小説と捜査型の小説の違いは挙げられているものの、それはあくまで創作作法の點から述べられている相違であって、本格推理小説のジャンルの定義を明らかにする為の区別ではない。また本格推理小説を滿たす要件というのは氏のサイトで提示されているものの、私立探偵小説を滿たす要件は提示されていないように思える(自分の見た限り)。果たしてそれはどのようなものなのか。
どなたが氏の私立探偵小説の要件というものを知っている方がおられましたら教えていただければと思います。いや、本當に分からないんですよ。氏の掲示板とか見ると、氏の理論はすべて「本格推理15」と日記で述べられた解説に書かれてあるとのことなんですけど、自分は何度讀み返しても理解出來なくてもう何というか。
疑問其の三
氏が提唱している本格推理小説の要件を、自分が氏の作品に適用すると、氏の作品の殆どが本格推理小説ではなくなってしまうという矛盾が生じる。これは自分の、本格推理小説の要件の運用方法が間違っているに違いない譯だが、だとすると適切な運用方法とはどのようなものなのか。
いうなれば、「二階堂式本格推理小説判断方法取扱説明書」みたいなものはないのか、ということです。
疑問其の四
氏の本格推理小説の条件2として擧げられている「作家の動機(執筆者の精神)」はどのようにして精査すればいいのか。評論する側の主観のみで決めることが出來るのか、それともそれはあくまで作者の意思表明によってはかられるべきなのか。氏の解説によれば、これは読者側がどう感じたかも重要であると書かれているのだが、だとするとそれは精査する側(批評する側)に委ねられることになり、必然的に批評する側の能力が問われることになる。実作者の意図を離れたところで、その作品が本格推理小説であるか否かが問われるのは正しいことなのか。また批評する側(精査する側)の能力に左右されてしまう条件と、その作品が本來持っている価値の乖離はどのように解決されるものなのか。
或いは單純にその本の装幀に「本格推理小説」と書かれていればそこには「作家の動機」が込められていると解釈されるべきなのか。しかしだとすると、その作品に「作家の動機(執筆者の精神)」を「込める」のは実作家本人ではなく、第三者である編集者ということになってしまう。この矛盾はいかに解決されるべきか。
[追記: 12/22/05] これに關しては氏の批評眼ランキングを絡めてある假説を思いついたんですけど、まさかねえ……。
疑問其の五
「神様ゲーム」は、謎の提示と推理、そして解決という本格ミステリ的な構成をとりつつも、探偵の位置付けとその結末は確信犯的に本格ミステリの枠組みから逸脱したものとなっている。これは氏の本格推理小説の条件、「文学的定義」と「ジャンル的技術(手法)」には當て嵌まらない作品であるように見える。しかし氏はこの作品を「2006 本格ミステリベスト100」で一位に推した日下氏の批評眼ランキングを、三位から一位に上げている。だとすると、この氏の行爲は、氏が「神様ゲーム」を本格推理小説であると認めているようにも思えるのだが、果たしてそうなのか。もしこの作品が本格推理小説であるとするならば、「神様ゲーム」において条件1と3はどのように滿たされているのか。またもしこの作品が本格推理小説でないとすれば、何故日下氏の批評眼ランキングは上がったのか(やはりこれはただの洒落ですかねえ)。
それと直接は關係ないんですけど、氣になっていることがありまして、それもついでに書いておきますと、
疑問其の六
本格ミステリ作家クラブのサイトにある有栖川有栖氏の「本格ミステリ作家クラブ(準備会)設立に寄せて」には、「そもそも日本で言う本格ミステリとはどういう小説のことを指しているのか? その答えは、ミステリファンの数だけ存在するはずだ。」という一文があるが、だとすると本格ミステリ大賞が目指している本格ミステリとはどのようなものなのか。上の一文を見た限り、本格ミステリ作家クラブには、本格ミステリの定義においての統一見解は存在しないようにも見えるのだが、それでも毎年大賞が選出されているという事実を鑑みれば、この大賞が選ばれる基準というものが存在する筈である。それはどのようなものなのか。またその本格ミステリ大賞の選出基準は二階堂氏の本格推理小説の条件と一致するものなのか。違うとすればそれはどう異なるのか。
疑問其の七
氏の掲示板で我孫子氏が「謎の提出」という言葉で、ミステリの定義に關して非常に興味深い考察を試みている。ここで実作として擧げられている「殺戮にいたる病」は勿論のこと「イニシエーションラブ」などは總て、二階堂氏が定義している「ミステリー」には該當しないように思えるのだが、その一方で兩作には濃厚な本格魂を感じる。それでもこの二作はミステリーではなく、それ故に本格推理小説でもありえないのか。
自分としては「イニシエーションラブ」は從來の形式を打破した當に最先端のミステリだと思っていて、「殺戮」も「弥勒」も本格ミステリの歴史的傑作だと思っているんですけどねえ。
……ってまた長くなってしまいました。実はまだまだ續くんですけど、本のレビューとも關係ないエントリをダラダラ繰り返してもアレなんで、というか、上の文章讀み返してみると全然理解出來ないのが悔しくて完全にグチになってますよ。もう少し本作を讀み込んでから、自分が分かった範囲の内容だけを機会があれば書いてみたいと思います。どれだけ理解出來るものか甚だ心許ないんですけどねえ。
[追記: 12/22/05] 上の文章で「本格ミステリ」と「本格推理小説」という言葉を分けて書いていますが、勿論意図してのことであります。