人殺し懺悔独演會。
というかんじで、何だか一巻二巻に比較して、人殺しの独白を構成の要に据えた作品が多かったような氣がしますよ。
最初を飾る乱歩の「双生児」からして副題が「ある死刑囚が教誨師にうちあけた話」ですからねえ。「双生児」というタイトル通り、この懺悔を行うのは双子の片割れで、どうやら彼は一人の男を殺して死刑の判決を受けているようなのですが、どうやらもう一人殺しているらしい。で、その人物というのが双子の兄でありまして、今からその罪を告白して懺悔したいと切り出します。
何しろ殺してしまったのが顏も瓜二つの双子の兄でありますから、鏡を見れば殺した兄がいる譯で、もう氣が狂いそうだと。こんなふうに殺した兄の幻影に苛まれるのは眞っ平ゴメンと罪の告白を行う私でありましたが、そこは乱歩。兄を殺した動機といっても「エデンの東」ふうの高尚なものである筈もなく、ただ單に兄への遺産の分け前が自分より多かったからとそれだけ。勿論そんな私に天罰が下るのは明らかで、私は日記帳に捺されていた兄の指紋を利用してとある殺人を試みるのですが、その仕掛けが仇となって、……という物語。この指紋を使った仕掛けが最後のドンデン返しに效いてくるあたりはやはり乱歩です。うまいな、と思いました。
佐頭弦馬「踊り子殺しの哀愁」はこれまた双生児が主人公で、五月の港町で出會った男から私が聞いた話という趣向はこのテの物語の定番ながら、最後のオチが皮肉を效かせている佳作。男の話というのは、これまた「双生児」と同じで、或る踊り子を好きになってしまった兄と私がその踊り子を巡って取り合いになり、結局私は兄と女を殺してしまうというものですで、この双生児は生まれた時から一人として育てられており二人一役をやっていたので、兄が死んでしまった限り、自分ももうこの世には存在しないのだ、……というフウにしめるのですが、勿論このまま終わる筈がありません。最後にクスリと笑ってしまうようなオチが決まります。
大御所木々高太郎の「皺の手」は醫學のセンスを效かせた物語。「これは、ある看護婦から聞いた話である」という冒頭から、看護婦の間で噂されるお話として、結婚をすると必ず新婚初夜にその妻が死んでしまう醫者が出て來るので、京極のアレかな、と思い乍ら讀み進めていくと、ある外科醫の話が一人稱で始まります。老婆の手術をしていたのだが、停電になってしまう。しかし結局老婆はこの手術の最中に死んでしまい、……とこの話は展開するのですが、最後のオチはミステリというよりは怪談でしょう。
山本禾太郎「抱茗荷の説」は、田所君子という女の半生を語るという體裁で始まります。台詞もなく全編地の文だけで語られるのですが、主人公の君子の記憶を辿りながら話が進むので、それが本當にあった出來事なのか、それとも君子の曖昧な記憶から作り出された妄想に過ぎないのか曖昧なところがミソ。幼少の頃、母が殺されているところを見た君子は、やがて旅藝人となってドサ廻りを續けるうちに幼い頃、母が死んでいた屋敷と同じところを見つけます。果たして自分の記憶にある母の死の眞相は、という話。ちょっと長いかなという氣もするのですが、曖昧な記憶から釀し出される物語の語りが妙な雰囲気を出していて、これは結構好みかもしれません。
高橋鐵の「怪船『人魚号』」は、當に怪作。人魚を見つける為に船を出して北洋へと向かうコッホ博士。果たして、本當に博士は人魚を見つけることが出來るのか、という雰囲気で進みながら、船の中で殺人が起こります。この犯人は勿論なのですが、最後に人魚の眞相が明らかにされます。何となく初期ブラックジャック(まだトンデモだった頃)の鳥人間を思い出してしまいましたよ、って完全にネタバレですねえ。
海野十三の「生きている腸」はそのスジの方々(含自分)にとっては定番ともいえる物語でしょう。醫學生がある死体から腸を取り出して、その腸を育てるという、それだけの小説です。とはいっても、この醫學生の偏執ぶりが、「ぐにゃ、ぐにゃ、ぐにゃ。ぶるっ、ぶるっ、ぶるっ」という擬音とともに描かれる中盤はかなりふるっていて讀ませます。結局この醫學生は培養液を必要とせずに生きることが出來るようになった腸をペットにして暮らすようになるのですが、愛玩していたペット(腸)のことも忘れて数日間も家をホッタラカシにしてしまいます。そうして久しぶりに家に歸ってみると果たして腸は、……というオチが何とも脱力。
伊豆実「呪われたヴァイオリン」は語り手である私が、友人のヴァイオリン彈きの男のことを語る話。この友人はアンドレア・アマチというヴァイオリンを田舍町で手に入れて、「楽器を愛するあまり、頬づりし、接吻し、暇があれば絹布で磨きつづけ、夜は兩腕にしっかり抱いて寝る」という程に偏愛します。しかし私を含めた周圍の人間はそのヴァイオリンを僞物だといって信じません。やがてこの友人は死んでしまい、ヴァイオリンの中から紙片が見つかります。果たしてその紙片に書かれてあった内容とは、……。密室で死んでいたということで、ミステリっぽく話が展開するのかと思いきや、トリックはその紙片に書かれてあった内容のなかで明らかになります。ミステリとして見た場合はちょっと弱いですかねえ。
朝山蜻一の「くびられた隱者」は首を絞められて「落ちる」快感に取り憑かれた繪描きの話で、彼に雇われた家政婦の語りで進みます。この繪描きは結婚相手も決まっているんだけど、婚約者に自分の性癖を告白することも出來ず、コッソリと秘密を知られてしまった家政婦に首を絞めてもらうことを頼みます。やがて繪描きと家政婦二人の秘密に感づいた婚約者が毆り込んできて、自分が男の首を絞めて氣持よくさせてやると張り切るのですが、その結末は、……。まあ、予想通りというか。
今日泊亜蘭の「くすり指」はまずその語りの何ともいえないリズムが不思議。台詞の語尾の「ないかネ」とかが、どうにも徳大寺有恒の「間違いだらけの車選び」フウで笑ってしまいます。話の方は幽霊話の眞相を調べてくれという憲兵伍長からの依頼に乘り出した「私」の語りで進みます。ミステリとして幽霊話の謎とこの依頼の裏にあった本當のことが明かされた後、怪談としてオチがつくあたり、なかなかな讀ませます。
乱歩の次弟にあたる平井蒼太の「溺指」は「指」を冠したタイトルがちょっとした騙しの效果を挙げている作品。自分が大切にしている皮手袋の由來を女が手紙調の文体で語るというものですが、これまた大方予想通りの結末。
狩久の「壁の中の女」は本作に収録されていた短篇の中では一番の出来榮えですかねえ。結核で入院している青年が、壁の中から出て來る女幽霊に出會います。男はやがて女が出現する壁のところから手記を見つけて、老看護婦からこの部屋に入院していた小説家の女性のことを聞き出します。果たして幽霊の怪異の謎がこれで集束したかと思いきや、最後の最後で素晴らしいドンデン返しを見せてくれる結末がいい。美しいファンタジーで終わらせることも出來たのに、それを脱力のネタにひっくり返してしまう作者の惡戲っぷりが冴えている好短篇でしょう。
南桃平「呪われた沼」もまた犯罪者の告白という語りで見せる話なのですが、語りの當人は元富山の藥賣りで、この村の女と結婚したのですが妻は急死してしまいます。それから彼は村にいるキ印の女にムラムラとしてしまい、……という話。
村で評判のキ印女にアレしてそれが人生の破滅をもたらす、といえばまず思い浮かぶのは夢野久作の「笑う唖女」ですが、向こうが三人稱で村醫者を突き放したような筆致で描いていたのに對して、こちらの方は男の独白でありますから終幕のカタストロフはやはり久作の方に軍配があがります。
さらにこちらのキ印女は言葉もシッカリと話せて意外に饒舌。久作のエベエベは言葉も話せない、それでいて身重の恰好で大きくなった腹を指さしながらアワアワとつきまとうものですから、さながらこちらの意志が通じない、怪物を相手にしているような怖さがある譯で。一方、本作のキ印女は醫者が困るのを分かっていて脅迫なんかしてくるものですから、キ印といえど立派な人間。やはりこのあたりのディテールでも久作の方が數段上の怖さがありますよ。
小滝光郎の「墓地」はその発想に大いに驚いた一編。この作品は何の説明もいらずに現代の作品としても通用するのではないでしょうか。
男の独白で話は展開するのですが、まず男はナイフで胸を突かれて殺され死んでしまうという夢を見ます。しかしこれが本當に夢かどうかが曖昧なまま話が進み、さながら乙一のデビュー作のような雰囲気で、死体となってしまった私の側から語りは進みます。土の中に埋葬され悲鳴をあげても誰も氣がついてくれない、男は未だに夢を見ていると思っていて、「あなたは僕の叫び声を聞いてくれただろうか」という絶妙な問いかけで終わるこの作品、ミステリというよりは完全に幻想小説か或いは怪奇小説の雰囲気を釀しているのですけど、短いながらもその靜的な文体から立ち上る不氣味な怖さはただ者ではありません。本作のなかではかなりの収穫でありました。
續く香山滋「マグノリア」もマグノリアの美しい花や蛇のディテールが素晴らしい怖さを釀し出している好編です。仲の良い女二人が外人の爬蟲類學者から西伊豆へのドライブに誘われます。そこで見つけたマグノリアの美しい花を女二人はそれぞれの庭に移植させて育てようと提案するのですが、女の一人が落雷に打たれてひどい顏になってしまう。事故に遭った女の方は美しいままでいるもう一人の女を憎みに憎み、夫に女の耳をもってこいという無茶な要求を切り出して、……という話。マグノリアという花に託した女の憎惡と、その象徴ともいえる蛇。とにかくディテールの美しさが際だった作品です。何処となく女の憎惡が極まった刹那のおぞましさを描いているという點で楳図かずおを髣髴とさせますねえ。
宮林太郎の「死霊」は、嵐の明けた翌日、湖畔に倒れていた女を助け、その女性を妻ととした男性の語りで進みます。その妻は半年で亡くなってしまうのですが、果たして男は妻が何処から來た何者なのかを知りません。その謎が解けた時、……という話なのですが、眞相が明かされた後の驚きよりも、こういう妻をもらってしまったことを後悔しまくる男のセコさが鬱陶しい一編。本來であればこの妻の正体が明かされたときにゾーッとしなければいけないんでしょうけど、寧ろそういう女を妻にしたということで、村人からも揶揄されまくるという現実の方が數段怖いですよ。
さて、ここまで書いてきて、本シリーズの一巻二巻を讀んできた御仁にはちょっと不満があるかもしれません。そう、「今回はいつものアレがないの?」と。はい、お待たせしました。このシリーズで忘れてならないのがアレですよねえ。本作の最後を飾るのは、永田政雄の「人肉嗜好」。もう、正直タイトルのままのお話ですよ。
舊沼から女の不氣味な死体が見つかるのですが、果たしてそんなフウにして殺した犯人の正体とそのもくろみは何なのか、ということを探っていく物語。結局、キ印の男が腦病の子供に食べさせる為に若い女を攫ってきてはその腦味噌を子供に与えていた、という身も蓋もないオチで終わります。死体の描写や人肉を食するシーンなどとにかくグロだけで押しまくる際どい一編で、本作は終わります。
正直、一巻二巻の方がまだミステリとしての體裁を保っていた作品が多かったのですが、この三卷では狩久の「壁の中の女」を除いてミステリらしい構成を持った作品はありません。「マグノリア」も小説としては素晴らしいのですけど、怪奇探偵小説という意匠の中で評価した場合、ミステリ、ではないですよねえ。勿論こういうのも大好きですけどね。
とりあえず一巻から本作三卷までの全三册の中でマストといえば、一巻からは村山槐多の「悪魔の舌」、大阪圭吉の「幽霊妻」ですかねえ。特に「幽霊妻」はミステリとしても非常によく出來ていると思います。二卷からは不條理と靜かな狂氣がないまぜとなった作風が好みの渡辺温「父を失う話」、そして蘭郁二郎の「魔像」、渡辺啓助の「壁の中の男」あたり。そしてサイケな情景が現代でも十分に通用するトリップ感を釀し出している潮寒二「蛞蝓妄想譜」。本作からは狩久の「壁の中の女」、香山滋「マグノリア」、小滝光郎の「墓地」が好みですねえ。特に「墓地」の発想は素晴らしい。
という譯で、結局三卷全てを取り上げてみたんですけど、マイナー作家の作品だけあってすべてがずば拔けて凄いという譯ではありません。やはり大御所の作品は手堅く纏まっており、狩久や蘭郁二郎など「それなりに」名前の知れた作家のものはヒネリが效いていてB級らしい「味」があります。
普通の本讀みの方であれば、ひばり書房系のスカムホラーにも通じるテイストを持ったこういう作品群など手に取ることもないのでしょうけど、偶にはヘンな物語でも讀んでトリップしてみたいと思ったときにでも自分のレビューとこの三册を思い出していただければ幸いです。