前回の前振りに續いて、本作に収録されている入賞作を見ていきたいと思うんですけど、とりあえず二階堂黎人氏の本格推理小説論は頭からサッパリ忘れて、収録作を普通のミステリとして讀んでみた感想を書いてみたいと思います、というか、繰り返しになりますけど、自分は氏の本格推理小説の何たるかをサッパリ理解出來ていない譯で、その分からないモノサシを使って作品をあれこれいっても仕方がない譯で。
本作を讀まれた方であれば大體予想はつくかと思いますが、自分が斷トツでいいと思ったのは青木知巳の「九人病」でした。
主人公は旅行雑誌の編集者の男性で、祕湯を探るという企畫の為に北海道の山奥にある温泉を訪ねてやってきたのですが、そこの温泉宿で相部屋となった男から奇妙な体驗を聞かされる、……という語りで始まるものの、この男の話というのがもう完全に怪奇探偵小説のソレでありまして、吃驚してしまいましたよ。山の中で助けた女の家に住み着いた男だったが、その家には奇病に罹った老婆がいて、……というこの話は相當に讀ませます。この奇病の正体がミステリ的な手法によって明かされるのですが、しかし最後に語りが現代に戻ってきたところで、再び物語は、一掃された怪異がたちのぼってくるところで絶妙の幕引きとなります。
もう一つのお氣に入りは、時織深の「無人島の絞首台」で、こちらは無人島めいたところに漂着した「おれ」の語りで進む話。無人島、そして一人稱の手記とあれば、當然その語りのなかに何か仕掛けがあると考えるのはミステリマニアとしては當然のことでありましょう。おれは戀人、そして旅先で知り合った胡散臭げな男と船に乗りこみ、爆破事故に遭遇。おれだけはこの無人島に漂着して助かったのだが、……といきさつが前半で簡潔に語られます。
そしておれは島をさまよううちに、絞首刑の階段を思わせる場所を見つけてしまいます。そこには自分の戀人が処刑されたとおぼしき痕跡があり、果たして彼女を殺したのは船に同乘していたあの男なのか、だとしたら、男は彼女を殺して未だこの島に潛んでいるのではないか。妄想に怯えるおれはやがてひとつの死体を見つけて、……というところでこの手記の仕掛けが明かされます。
登場人物は實質三人だけですから、ここで展開出來る仕掛けも限られてしまうのですが、この眞相はもうありきたりなもの乍らもなかなか驚かせてもらいました。こういうのも大好きですねえ。そして眞相が明かされたあとの、とってつけたようなこの幕引きも短篇としては大いにアリでしょう。
網浦圭の「何処かで汽笛を聞きながら」も、日常の謎系の構成を取り乍らも、思いもつかないような手掛かりだけを頼りに眞相を解き明かしていく精緻なロジックが光っています。
物語は觀光でとある神社を訪れた老人の私が、慰靈碑に刻まれていた誘拐の二文字に目を留めて、かつて自分が誘拐されたことのある過去を回想するところから始まります。その話を聞いていたライターが、私の話だけを頼りに、私が誘拐され監禁されていた場所は何処だったのかを解き明かす、という話。タイトルにもある通り、汽笛の音がその場所を特定する大きな手掛かりになっているのですが、その他にも誘拐犯(?)のちょっとした所作からその人物像を推理したりする過程が讀ませる。
個人的に見て、この三つが他の作品と比較して、際だっているように思えましたよ。
秋井裕の「教唆は正犯」は、バーで知り合った男に殺人を依頼した私が追いつめられていくという物語。この殺し屋はいかにも怪しいのですが、私は躊躇いつつも彼に殺人を依頼します。その際に證文を取られてしまうのですが、これをタイトルに絡めたラストはなかなか。しかしこれは二階堂氏も言及していますけど、犯人のアリバイトリックはバレバレで、この證文に犯人が仕掛けたトリックも氣がつけよ、と語り手の私にいってしまいたくなる出来榮えで、このあたりは確かにまだまだなものの、冒頭ですぐに殺し屋を絡めて物語をテンポよく展開させていくところなど、惡くないと思います。要するに素材が良ければ、なかなかの短篇を仕上げてくれる人ではないかと。
どうやらこの入賞した人は常連組と新人に分かれているらしく、「水島のりかの冒険」の作者、園田修一郎は常連組に入る人とのこと。確かにやりすぎ感が極まった短篇はバズラーものとしては優れているものの、個人的にはここまでやらなくても、と思ってしまった作品。あまりに仕掛けを詰め込み過ぎた故に、小説の結構が完全に壞れてしまっているような氣がします。それでもここまで執拗に騙しにこだわる作者の心意氣は買い、でしょう。
藤原遊子の「コスモスの鉢」は女性の檢察官の視點から、夫殺しで逮捕された女性を取り調べていく過程が描かれます。死体の右足の側に転がっていたコスモスの鉢から犯人の犯行を暴いていくというものなのですが、一昔前の社會派推理っぽい風格がちょっと野暮ったいですかねえ。
社會派という點では、その風格を前面に押し出したのが、鷹将純一郎の「モーニング・グローリィを君に」で、こちらも常連組の作品。「コスモスの鉢」の作者に比較すると、さすがに小説としてはこちらの方がこなれていて、地の文から淡々と物語の情景を描いていくところなど、バズラーというよりは完全に一昔前の推理小説ですよ。老人介護施設を訪問してボランティア活動を行っていた若い女性が殺されるのですが、それを警察である私の一人稱でじっくりと描いていきます。
警察とは別に、老人たちも正義感を起こして、彼女を殺した犯人を捜そうと動きだします。果たしてその老人も死体で見つかり、この連續殺人の犯人は、……という流れで進みながら、眞相が明かされるところでは、女性殺しの視點から逸れたところで進められていた「犯行」が、私の推理によって明らかにされるという趣向です。何処となくこの眞相の捻れ方が連城っぽくていい。
本作は中程に、「収録作家8人に訊く」という章があって、これがなかなか面白かったです。作家それぞれに本格推理小説に對する思い入れがあって、その違いを確認出來て興味深い。常連組の園田氏、青木氏はここでも完全に遊んでおりますが、秋井氏など好きな作家に二階堂黎人氏を、好きな推理小説作品には「水乃サトルシリーズ」を入れているところが何ともいじらしい。
網浦氏の大袈裟なものいいも微笑ましいのですが、個人的に感銘を受けたのは、時織氏の文章ですねえ。「本格推理小説に限らず、小説というものは読者があって成り立つものです」「いい小説というものは、苦痛なく読み進められるものであり、そして殘りのページが少なくなるのをもったいなく思うようなものではないでしょうか」という言葉はその通りで、氏の作品「無人島の絞首台」は無駄のない構成と序盤から讀者を引きつける文章も巧みで、次作を讀んでみたい作者の一人ですよ。次作も讀みたい、ということでいえば、個性的な発想とその怪奇趣味が完全に自分の好みの青木氏の作品も期待したいところですねえ。
以上。
え?九作が収録されているのだから、あと二作はどうした、という声があるような氣がするんですけど、……スミマセン。殘りの二作は同じ作者の手になるもので、この二作こそが二階堂黎人氏曰わく「空前絶後の作品を求む!」という声に応えた作品、とのことなのですが、……自分にはマッタク理解出來ませんでしたよ。
理解も出來ないので、批評は勿論、批判もすることは出來ません。まあ、二階堂氏の本格推理小説の何たるかが理解出來ていない自分のこと、氏の求める本格推理小説を体現した空前絶後の作品を理解出來ないのも當然といえましょう。とりあえず、「二階堂氏のいう本格推理小説がどのようなものなのかは理解出來ない」ということは、この作品を讀んでみてようく分かりましたよ。
まあ、何が何だかよく分からない作品だったので、何も語るべきでないとは思うんですけど、とりあえず一言だけ。この作品、蘭子系、サトル系というより、ギガンテス系じゃないんですかねえ。