主觀地獄、見ることと信じること。
既晴氏の代表作にして、藍霄氏の「錯置體」とともに台湾ミステリの歴史的傑作として位置づけられるべき作品ともいえる本作ですが、再讀して氣がついたのは「錯置體」と同様のモチーフを扱っているところでありまして、このあたりは後述します。
現時點においては既晴氏の作品中、もっとも本格ミステリとしての濃度が高く、それゆえ最後の大仕掛けが明らかにされることによって引き起こされる眩暈感はある意味孤高、しかしその一方でタイトルからも想像される通りに精神疾患と人間の狂氣を物語の中心に据えているが為に非常に讀み手を選ぶ作品に仕上がっているところが、ホラー的な要素やユーモアも投入しつつ極上のエンタメ作品へと仕上げている張鈞見シリーズとは大きく異なるところでしょうか。
「野葡萄」の14號に掲載された既晴氏の文章「『魔法妄想症』以後」によれば、本作は島田御大の掲げた本格ミステリー論を意識して書かれたものとのことで、「幻想的で、魅力ある謎」と「高度な論理性」の融合した作風という點ではまさに御大のいわれる本格ミステリーの影響を強く感じさせます。
物語は唐突にDとSというイニシャルで記された二人の人物の奇妙なやりとりを綴ったプロローグから始まるのですけど、この後に續く狂人の不可解な手記によって物語はいよいよ混沌としてきます。
狂人の手記に特有の、全体に漂う不穩な空氣は尋常ではなく、自らの半生に絡めて魔術の縁起が語られる内容は「占星術殺人事件」の冒頭に登場する梅沢平吉の手記を髣髴とさせ、まったくもって意味不明。いよいよ孤独を深めていく語り手が魔術の研究にのめり込んでいくや、惡魔の声を聞くに到る。
男はこの電波の声を師匠として魔術の研究を極め、ついに大惡魔の復活を行う儀式を決行、師匠に導かれるまま惡魔の踊りを演じると、目の前に横たわっていた首切り死体が立ち上がる。果たして狂人男の見た惡魔の儀式は幻覺だったのか、……というところから一轉して、今度は刑事の視點から殺人事件の物語が語られていくという結構です。
殺人現場には凄慘な首無し死体が転がり、釘でシッカリと蓋のされていた木箱の中には狂人男が閉じこめられていたところから、警察ではこの男が怪しいということになるものの、何しろ男はキ印で惡魔の儀式だの譯の分からないことを一人語りするばかりで埒があかない。
現場に昏倒していた被害者の仕事仲間によると、何でも殺された男には私生兒がいて、彼女は族に拉致されたのち、身代金を要求されていたという。コロシのあった夜には現場で族に金を引き渡す予定だったとのことだけども、犬頭を被った奇妙な風體の男たちはその場で奇妙な惡魔儀式を大敢行。金は強奪され、氣がつくと現場には狂人の入った木箱と首無し死体が残されていたというのだが、果たして……という話。
狂人の語る魔法儀式と首無し死体の復活という怪異は本當にあったのか、そしてそれはこのコロシにどう絡んでいたのかというところが大きなキモながら、捜査の過程で木箱に閉じこめられていた狂人の存在が急浮上、何でも男は現場から遠く離れた場所の自室にいて、部屋にはシッカリと鍵がかけられていたことを家人が確認しているゆえ、狂人はどう考えても殺人現場に行くことが出來ない。
勿論、冒頭に綴られた狂人の手記の中では、惡魔の導きによって男はそのまま部屋をすり拔けて殺人現場までたやすく移動しているのですけど、何しるキ印の語りゆえどうにも信用は出來かねる。
やがて警察の捜査によって狂人が部屋を拔け出したトリックは明かされるものの、ここで物語は唐突に狂人の語りに再び轉じます。そしてここからが本作のクライマックスで、異樣な探偵がこの異樣な事件の眞相を狂人を前にして解き明かすのですが、繪畫論や精神醫學を驅使して語られる超絶推理もさることながら、やはりこの推理のキモは狂人の視點にたたないと決して解き明かせない首無しの死体の眞相でしょう。
狂人の見たものをそのまま受け容れないと決して眞相に辿り着くことが出來ないという逆説が秀逸で、またそれだからこそこの探偵以外に事件の真相を解き明かすことが出來なかったと思わせる探偵の造形もまた見事。
また警察の視點で語られる中盤の推理と、名探偵が最後に事件を解き明かしてみせる推理の違いにも注目で、警察の捜査の陷穽を突いたトリックによって犯人は完全に捜査の圈外に退けられてしまうのですが、狂人の側から事件の全体を見通していた探偵だけが真犯人に辿り着くことが出來、犯人は捜査を欺くトリックによって自ら敗北するという後半の謎解きも素晴らしい。
狂氣と正氣が探偵の推理によって見事な反轉を見せる幕引きも含めて、幻想ミステリとしても一級品の風格を持ち、また仕掛けを中心に据えた本格としても愉しむことが出來る、當に傑作というに相應しい作品でしょう。
台湾ミステリを代表する歴史的傑作といいきっていいと思うのですけど、同様に2004年にリリースされた藍霄氏の「錯置體」と本作が共通するモチーフを扱っているところに注目で、この二作へ更に冷言氏の「上帝禁區」も含めて、台湾ミステリにおける幻想ミステリの三大傑作として竝べてみるとなかなか興味深いことが見えてくるのではないでしょうか。
「錯置體」での記憶の錯乱と精神分裂、そして「魔法妄想症」における魔法妄想症、そして「上帝禁區」のドッペルゲンガーと、三作のいずれもが信用の出來ない語り手である狂人の手記によって物語の幻想性を高め、それが探偵の推理によって解き明かされるという構成を持つ一方、狂人の病理が自己同一性に大きく絡んでいてそれがまた物語の構成にも多大な影響を及ぼしているところや、首切り死体による獵奇的犯罪と、互いに共通するところを持った作品がほぼ時を同じくして書かれたのは果たして偶然に過ぎないのか、それともこの強度の幻想性と高度な論理こそが台湾ミステリの根源的に持っている個性なのか、今後リリースされていく作品も含めてこのあたりを追いかけていきたいと考えています。
[02/21/07: 追記]
出だしの文章で本作の個性を指摘しておきながら、後段では三作の共通性を指摘するという奇妙な纏め方になっていることに氣がつきました(鬱)。本エントリでは、探偵の造詣の獨自性や狂氣と正氣における物語の反轉など本作に特有の構成を持ちながらも、「錯置體」とはいくつかのモチーフにおいての共通性がある、という指摘をしたかったのでありまして、本來であれば、冒頭の一文で「錯置體」との共通項があることを述べて、その後に本作の獨自性を分析し、最後は三作の共通性について纏める、という構成にするべきでした。という譯で、冒頭の文章を修正しておきます。