島田御大の「21世紀本格宣言」を讀み返してからというもの、どうにも清張呪縛という言葉が頭を離れず、ここ最近は意味もなく色々なことを考えたりしているんですけど、少し前に吉野仁氏が「孤独のつぶやき」の中で八十年代におけるミステリ業界について言及していたということもあって、連城氏の代表作にして直木賞受賞作である本作を讀み返してみようと思い立った次第です。
この「恋文」が直木賞を受賞したのは昭和五十九年の第91回、つまり八十四年ということで當に吉野氏のいわれている八十年代の作品ということになります。綾辻氏の「十角館の殺人」が八十七年ですから、當に新本格誕生前夜に本作は直木賞を受賞し、世間一般からも評價を得ることに至った譯ですけども、新本格作家の方々も含めた過去のコメントを目にするにつけ、この時期はプロ作家も本格ミステリを書くことも出來ず、甘んじて社會派モドキや普通小説を書き綴るよりすべはなく、マニアもまたそんな小説へと転向してしまった作家たちに溜息をつきつつ、新たな本格ミステリのブームを待望していた、……みたいな雰圍氣が自分の頭の中には出來上がってしまっているゆえ、吉野氏のいわれている「その一方でくだんの「幻影城」作家たちがマニアに支持され時代を作ったりした」という指摘は新鮮な驚きでありました。
その一方自分の中では、かなりの方々がこの當事の連城氏に對して「ミステリから離れて普通小説ばかり書いている」みたいに語っていた印象もあったりするんですけど、果たして直木賞の受賞作である本作はミステリとしては愉しめないのか、かつての連城ミステリの片鱗もない、單なるブンガク作品に過ぎないのか、というところが氣になるところ、ですよ。
結論から先にいってしまうと、連城ミステリのファンにして氏の技巧がどのようなものであるのかに知悉している方であれば、本作も十二分にミステリとして愉しむことが出來るかと思います。
収録作は、やり手の女編集者のダメ旦那と昔の女との奇妙な三角關係の中に騙すものと騙されるものとの逆転劇を添えた表題作「恋文」、新妻を亡くした男と義母との人間ドラマに連城流の仕掛けを凝らした「紅き唇」、母親が再婚した男との奇妙な同居生活に連城トリックのどんでん返しが炸裂する「十三年目の子守歌」、愛嬌タップリの髮結い亭主と妻の浮氣にこれまた嘘の技巧を懲らしまくった「ピエロ」、夭折した姪と叔父との昔關係と姪孫とのドラマに女心の妙を投射した「私の叔父さん」の全四編。
連城ワールドではお馴染みのダメ男とやり手妻という二人と、ダメ男の過去の戀人という三角關係をあたかも舞台劇のように描き出した「恋文」は、確かに逆轉に次ぐ逆轉というめまぐるしさを交えた長編などに比較すると、そちらの技巧は薄味ながら、ようく讀めば、やり手妻が電話を受けている冒頭のシーンからして、既に讀者をはっとさせる仕掛けが凝らされていることに氣がつきます。
ダメ男の元カノとやり手妻の奇妙な友情關係が物語に優しい空氣を醸し出していて、……なんてかんじで文藝評論家あたりは本作をブンガク的な視點から語ってみたくなる風格ながら、連城ミステリの大ファンであれば、この奇妙にも思える人間關係の眞相が最後に明かされる幕引きにニヤリとしてしまうことは間違いなし。
やり手妻の視點から見たダメ男と元カノ、という構図で物語を進めつつ、最後にはこのドラマの根底にあった優しい嘘と騙しの眞相が語られるという趣向は當に連城ミステリならではで、この嘘に絡めたアイテムが、ダメ男と元カノとのハレの場面にはシッカリと伏線として描かれているところも秀逸です。
「紅き唇」は早くに妻を亡くした冴えない男と義母のドラマを表に描きつつ、亡くなった新妻の面影と主役男の戀人とのエピソードをさりげなく添えているところがミソ。これによって、ある人物を中心にした真の戀愛劇を讀者の視線から隠してしまう手際が素晴らしい。當に語りと騙りによる連城ミステリの技巧が冴えわたった一編といえるでしょう。
後半の逆転劇にもっともガツン、とやられたのが、収録作の中では短めの「十三年目の子守歌」で、母親が旅行から新しい男を連れて歸ってくる、という冒頭から、新しい同居人で父親面をする男の正体を中盤まで伏せておいて讀者をあッといわせる技巧など、目の肥えたミステリマニアであればアレ系の仕掛けにも通じる巧みさに、これまたニヤリとしてしまうのではないでしょうか。
またこの物語の中でひとつのキモとなる或る言葉に凝らした仕掛けなど、海外ハードボイルドの歴史的傑作のアレにも通じるものがあるように思うのですけど、これまた頑強なミステリマニアからすると、本作には仕掛けもコロシがないからミステリじゃない、ということになってしまうんでしょうか。
とはいえ、「美女」を連城ミステリの極北と評價し、以前取り上げた「紫の傷」などの短編集も極上の技巧を凝らした一册として愉しめる方であれば、普通小説を裝いつつも連城氏が物語の中にひそませた仕掛けを探しながらその技巧を大いに堪能することが出來るかと思います。
男女の嘘が連城ミステリを重要な構成要素の一つであることは今更指摘するまでもないかと思うのですけど、「ピエロ」はそんな嘘による反轉が騙すものと騙されるものとの裏返しへと轉じるところが素晴らしい。
會社を辭めて髮結いの亭主となった男がやり手の妻を助けることで美容院は大繁盛、しかしその妻は結婚記念日の夜に他の男と浮氣をするという、果たして……という話。
脇キャラを絡めた後半の嘘を登場人物が振り返り、果たしてすべては騙されていたと自分が思っていたものの演技だったのかと思うところのどんでん返しが秀逸。収録作の中では「十三年目の子守歌」と同樣、後半の大技が表と裏をひっくり返す仕掛けに連城ミステリの本質を見ることが出來る一編といえるでしょう。
「私の叔父さん」も、禁じられた戀とボンクラ男には理解出來ない複雑な女心を描きつつ、小娘のトンデモをひとつの嘘によって主人公がひっくり返してしまう後半の構成に連城ミステリらしさが出ているのですけど、個人的には、脇キャラであったある人物が大切にしまっておいたブツに仕掛けられていた女心にぐっときました。またこの一つのブツによって、主人公の知らなかった、脇キャラと回想の中でのみ語られていたヒロインとの優しい關係が明かされる構成も素晴らしい。
という譯で、自分は本作に収録された作品も連城ミステリとして大いに愉しむことが出來たのですけど、果たして當事これを讀んで、ミステリではない普通小説としてガッカリしてしまった方というのはどういう嗜好だったのか、興味のあるところです。
ミステリからコロシと惡意を取り除いたのが本作のような風格の連城ミステリ、みたいなかんじがするんですけど、惡意はなくても騙しはあるし、コロシがなくても男女の心の謎が物語を牽引していく構成は、個人的には十分にミステリとして讀めると思うのですが如何。
もし本格の鬼とかのマニアが、本作をもってミステリではない普通小説、と見なしてしまったのであれば、それは單に連城ミステリの深奥を知らなかったがゆえ、連城氏がこの物語に込めた仕掛けを讀み解けなかっただけなんじゃア、……なんて思ってしまうんですけど、實際のところ、マニアや大御所の方々は直木賞を受賞した本作をどんなふうに評價していたんでしょう。
果たして島田御大のいわれるように新本格以前にリリースされた本作もまた清張の呪縛によって普通小説に屈した作品、みたいなかんじで受け取られていたのか、或いは普通の本讀みにのみならず、吉野氏のいわれるようにマニアにもまたミステリとして支持されていたのか。
自分も直木賞を受賞したときに本作を讀んでいたには違いないんですけど、何しろ當事はミステリ文壇なんてものの存在も知らなかったゆえ、當事の空氣というものがどんなものだったのかマッタク記憶にないんですよねえ。困ったものです。