パスティーシュという名のミステリ装置、斷じてボクら派に非ず。
芦辺氏の手になる名探偵博覽会第二彈、といいつつ自分は「真説ルパン対ホームズ」は未讀だったりするんですけど、こちらは和モノである明智小五郎と金田一耕助ということでゲットしてみました。
パスティーシュにレトロ趣味というと、やはり千野帽子氏いわれるところのボクら派の作品をイメージしてしまうのですけどご心配なく。名探偵に登場願って、足跡のない雪密室だのといった「驚天動地、空前絶後の不可能犯罪」とは名ばかりの、劣化した贋作を披露してそれでオシマイ、というようなものでは決してなく、本作は寧ろパスティーシュという外枠をも仕掛けとして利用してしまう巧みの技が素晴らしい作品集に仕上がっています。
収録作は、若かりし金田一が不可能犯罪に挑む「明智小五郎対金田一耕助」、本格理解「派系」作家の神であるビヤ樽探偵を肴に惡ノリを極めた「フレンチ警部と雷鳴の城」、ブラウン神父を探偵に配して異樣な殺人を描いた「ブラウン神父の日本趣味」。
某ベルギー探偵のアレがアレだという、マニアに配慮した展開がアレな「そしてオリエント急行から誰もいなくなった」、クイーンに登場願うとあればやはりネタはアレでしょう、と讀者の期待にシッカリ応えてくれる「Qの悲劇 または二人の黒覆面の冒険」。そして自分語りが鬱陶しい探偵作家がスイカ男に殺される「探偵映画の夜」、あの怪人の誕生を描いた「少年は怪人を夢見る」の全七編。
この中でもやはり一番のお氣に入りは、「明智小五郎対金田一耕助」で、「対」とあれば明智と金田一がガチンコで推理合戦を披露してくれるのか、なんて期待してしまうのですけど、物語は奇妙なコロシを交えて專ら金田一の視點で進みます。
あとがきによれば、このコロシのネタは子供の頃にテレビで見た喜劇映畫にインスパイアされたとのことで、藥屋の後繼を巡って元祖と本家が通りの向かいに店を出しているというナンセンスさから、金田一の推理はこれまた予想通りの展開を見せるものの、本作ではこの御約束の推理をこねくりにこねくり廻してトンデモないことになっているところがミソ。
ここへ明智對金田一という結構をネタにして極上の仕掛けを施しているところも素敵で、一見すれば單純そうな事件そのものに強引などんでん返しを凝らして物語を二転三転させてしまう無理矢理感が芦辺氏らしい一篇でしょう。
續く「フレンチ警部と雷鳴の城」も、パスティーシュならではの惡ノリなトリックが光る作品で、フレンチ警部も出演しているとはいえ、最後にトンデモなネタを開陳してみせるのは、やはり本格理解「派系」のスーパーアイドルであるあの人、というところが何ともで、脱力寸前のアンマリなトリックとそのオチも含めて、ユーモアを解さないマニアから苦情が殺到したのでは、なんて余計な心配をしてしまう作品です。
「ブラウン神父の日本趣味」は、前二作に比較して、パスティーシュという趣向を利用した惡ノリこそ見られないものの、恐らくは小森氏からのネタと思われる異樣な論理が炸裂した、パスティーシュとして非常に完成度の高い一篇です。
不可解な密室状況で男が殺されている、というありきたりのコロシに、ブラウン神父が例によって例の推理を披露してみせるのですけど、そのネタの異樣さゆえ、本作の収録作の中ではちょっと浮いてしまっているところがなきにしもあらず、でしょうか。どちらかというと小森氏の風格が色濃く出ている作品だと思います。
「Qの悲劇」も、ちょっと芦辺氏の作品とは毛色の異なるクイーンをネタにしているとあって、収録作の中ではこれまた雰圍氣の違った一篇です。クイーンがコロシに卷き込まれてリアル世界でも探偵として擔ぎ出されるという趣向はこちらの予想通り、そして勿論クイーンといえばやはりアレ、といえるような二人二役ネタも開陳して物語を転がしていくのですけど、謎解きの部分は意外にクイーンらしい正統派で締めくくるゆえ、このあたりに芦辺氏らしい風格は薄味でしょうか。
それでも最後の幕引きにちょっとしたお遊びを添えてしめくくる惡ノリはやはり芦辺氏といったところで、個人的にはクイーンの前にあの人がいきなり登場してきた時にはニヤリと笑ってしまいましたよ。
「探偵映画の夜」は、これから殺される探偵小説家が探偵映畫に關する蘊蓄をダラダラと喋り散らす冒頭から、ボクら派に片足を突っ込んでいるようで何ともなんですけど、勿論これが後半の推理に繋がっていく譯で、小説家がスイカ男に殺害されるところを目撃していたことで話はグングンと錯綜していき、最後にオーソドックスなトリックが明かされての幕引きとなります。前半の映畫語りに芦辺氏らしいレトロ趣味が垣間見えるものの、普通によく出來た本格として愉しむことが出來るのではないでしょうか。
卷末の解説は唐沢俊一氏なのですけど、この中に興味深い指摘がありまして、
作家・芦辺拓の目は、大局より細部に、強者よりは弱者に、中央よりは地方に、時代の最先端より、取り残されてもまた、ひっそりと生き延びているものどもの方に注がれる。そして、前者のために後者がないがしろにされがちな時代を常に憤って、それに対する弁護を自らかってでているのである(……略……)。そして、芦辺作品の、ほぼ、その全てを通して通底するテーマである、流行作家としては大変に世渡り下手と思える、現代との対決姿勢こそ、失われゆくものと新たに出来つつあるものの双方を見る時代といえる昭和30年代に生まれた者の共通項であり、そして、その特徴を他の誰よりも明確に作品中に反映させている芦辺拓の魅力でもある。
弱者に目を注ぎ、現代に憤るというあたりは島田御大の風格にも通じるものがあると思うのですけど、レトロ趣味といいつつそれが決してボクら派に堕ちないところが、ここで唐沢氏の指摘されている「大局より細部に、強者よりは弱者に、中央よりは地方に、時代の最先端より、取り残されてもまた、ひっそりと生き延びているものどもの方に注がれる」という芦辺氏の立ち位置にあるのではないかなア、思ったりするのですが如何でしょう。
黄金期を猿真似した作品が讀みたいだけ、という方にはアレ乍ら、パスティーシュという趣向をも仕掛けに取り込んでしまう芦辺氏の巧者ぶりを愉しむには恰好の一册といえるかもしれません。