恋愛メカニズム、ミステリの構図。
先日の泡坂妻夫氏の「砂時計」に續いて、コロシは不在、それでも濃厚な本格風味が堪能出來る連城ミステリの一册を今日は取り上げてみたいと思います。
何しろ明確なかたちをした事件が發生しない為、これまたあからさまな謎も物語の牽引に寄与する譯ではないというこの時期の連城氏の作品を、それ故にミステリではない本格ではないと切り捨ててしまうのもまア、理解出來なくはないものの、凄慘にして空前絶後、當に驚天動地の不可能犯罪と超絶的な名探偵が出て來なくともその「仕掛け」を愉しめれば大滿足、というボンクラにしてみれば本作もまた素晴らしい逸品で、大いにオススメをしたくなる次第でありまして。
恋愛に絡めて樣々な嘘と操りが炸裂する物語は當に連城氏の眞骨頂、本作では返還間近の香港を舞台にしているところが新機軸でしょうか。収録作は、香港人の仕事仲間から妻を抱いてくれという奇妙な依頼を受けた日本人に、嘘を交えた驅け引きが光る「情人」、奔放な猫娘に振り回される男たちに意想外な騙しを交えた「騷がしいラブソング」、香港ツアーに参加した負け組女の奇妙な恋愛模樣を描いた「灰の女」、上海から台湾に亡命した男と妻との邂逅に極上の仕掛けを施した傑作「火恋」、英国、日本、香港人たちが騙しと操りを交えて壯絶な虚構劇を展開させる「黒夜」の全五編。
個人的にやはり一番印象に残ったのは表題作の「火恋」で、主人公は上海から台湾へと政治亡命を行った一人の男。彼は大陸に置き去りにした妻のことがずっと頭から離れず、香港返還を目前に日本人の男と共に香港で数十年ぶりに邂逅することになるのだが、……という話。
主人公の男が香港へと向かう現在と、男の回想が交錯しながら物語が進められる構成も見事で、男の語りにさりげなく嘘が添えられてい、それが終盤に暴かれていくという趣向も期待通り。最後に主人公と妻の二人の人物による奸計が明かされるのですけど、ここから讀者が抱くであろう最大の疑問に對しては眞相を明かさずにその意味を主人公の判断に委ねて幕となるところが洒落ています。結びの台詞や、一人の日本人を介して操りが交錯する仕掛けも含めて、収録作の中ではもっともそのミステリ的な趣向を愉しめる一編でしょう。
「情人」は、仕事仲間の香港人から、突然妻を抱いてくれと頼まれる日本人の物語。勿論こんな怪しい話にはシッカリと裏があって、妻との關係がギクシャクしている主人公の男は樣々な妄想を働かせるものの、結局掌の上で躍らされていることが明かされる後半には、連城氏の某長編などでもお馴染みの仕掛けが開陳されるという構成です。
冒頭の船上でのシーンから映畫のワンシーンを思わせる描寫も雰圍氣滿點で、連城氏らしい騙しを絡めた恋愛ミステリとしても極上の逸品でしょう。
「騷がしいラブソング」は、語り手の男の語りが何処か惚けた調子を出している短編で、収録作の中ではやや異色乍ら、恋愛に絡めて嘘と操りの趣向が鏤められた物語は軽妙なテンポで進みます。
ヒロインともいえる香港小姐の奔放さがいい味を出していて、男を誘惑しては振り回す娘っ子の行動の眞意が、登場人物たちの台詞の一言によってまったく違った構図を見せていくという獨特の展開はこの時期の連城氏の定番でしょう。
登場人物たちの思惑が錯綜して、シッチャカメッチャカになっている恋愛模樣も、連城氏が描くといかにも洗練された恋愛ミステリへと變じてしまうところは當に魔術的、ド派手な事件こそ起こらないものの、語りこそが騙りと登場人物たちの會話に込められた仕掛けの巧みさに思わず舌を巻いてしまう一編です。
「黒夜」は何処か清々しい雰圍氣さえ感じられる他作品に比較すると、何処かドンヨリとした暗さを湛えた物語で、渋滞に巻きこまれた車中で嘘と騙し合いを兼ねた會話をしている夫婦の描寫からして、當に連城氏の獨壇場といったかんじなのですけど、本作では、日本人と英國人の夫婦、そこに中國人たちを絡めて、香港とマカオを舞台にそれぞれの登場人物を日本、英國、中国、香港の暗喩かと思わせる異樣な恋愛ドラマが展開されます。
妻が夫に對してついている嘘、そして夫が妻についている嘘、といった樣々な嘘に操りを絡めた關係が錯綜して物語が進む中、夫婦に視點をおきながら進められていた舞台が或る登場人物の付き續けていた嘘によってまったく違った樣相を見せ始める後半の展開が見事。
操りの果てに終わった戀愛ドラマを登場人物の虚無によって締めくくる幕引きは、この混沌とした物語の結びにふさわしく、何処か釋然としないラストに香港の未來と英國の立場を重ね合わせてみる、みたいな穿った讀み方もアリでしょう。
難しいことを考えず、頁をめくりつつその騙りの巧みさに翻弄される、というのが本作も含めたこの時期の連城ミステリの最も愉しい讀み方じゃないかなア、なんて考えたりするんですけど、本作に収録された作品に込められたそれぞれの語りの相違に着目してみるのも叉面白いかもしれません。
「騷がしいラブソング」は、一人語りに託して讀者の意識を語り手に同化させつつ、主人公が登場人物たちの嘘と騙しに翻弄される樣を追体驗させるという手法が光る短編で、登場人物の台詞の一言が、今までの嘘を暴き、それまで見えていた物語世界が一轉してしまうという趣向は収録作の中では一番キレが冴えているように思えます。
主人公が周囲の人物の思惑を邪推することによって、物語に混沌とした雰圍氣を與えている「情人」では、正確ではない日本語を話す香港人のキャラが、事實と嘘の渾然とした物語世界にまた絶妙な風格を添えているところが素晴らしい。
英國人の夫と日本人の妻という、香港から見たら餘所者である二人の視點から物語を進めつつ、そこに出自の異なる現地人の二人の行動を交えて操りの手法が炸裂する「黒夜」はその技の多彩ぶりからもっとも趣向の冴えわたった一篇で、後半にアレしてしまう登場人物の心のダークネスなども含めて讀後感は非常に複雑。ハッキリしない幕引きから色々なことを考えてしまいます。
という譯で、「美女」などに比較すると、その技のやりすぎぶりは控えめ乍ら、語りの仕掛けを愉しむにはまた格好の一册といえるのではないでしょうか。泡坂氏の作品とともに、マニア受けは微妙とはいえ、個人的にはもっと多くの人に讀んでもらいたいなア、と思うのでありました。