操りの重奏、仕掛けの協奏。
「困ったちゃん」が電波文書の中で述べている新本格バーサス社会派という図式がここ最近少しばかり氣になっておりまして、今日は土屋隆夫と同様、自分としてはお氣に入りの少し古い作家である陳舜臣の作品である本作、「炎に絵を」を紹介したいと思います。
物語のあらすじは、神戸の支店に配属された主人公の純朴君が、辛亥革命の時に革命資金を横領したとされる父の汚名を晴らしてもらいたいという依頼を嫂から受けることに。で、純朴君は父のことを知る人間から話を聞いたりして、仄かに憧れている嫂の催促を受けながらこの一件を調べていく一方、会社では企業秘密であるブツを持っていてほしいと上司から頼まれます。
父の汚名を晴らすというセンと、この企業秘密のブツという二つを軸にして物語が進んでいくのですけど、この間に純朴君は社長が妾に産ませた娘といいカンジになったり、謎の人物から殺されかかったりという事件が續發。
そして中盤には父の汚名に關して重大な資料を發見、また横領資金の一件で重要人物ともいえたとある人物との關係が明かされたりと、序盤のもたつきが嘘のようにこの一件に關してはトントン拍子に話が進み、純朴君は大富豪の叔母の養子になることに。
しかし養子になったところでこの祖母が殺されてしまったからさあ大變、果たしてこの殺人事件の犯人は誰なのか、また上司から預かった企業秘密のブツも盗まれてしまうのだが、その犯人は、……という話。
本作の見所は、中盤で發生する殺人事件がオーソドックスものでありながら、父の汚名と企業秘密という二つの軸に絡めて樣々な仕掛けが凝らされているところにありまして、それらがまたすべて殺人事件そのもののトリックには大きく絡んでいないところが逆に素晴らしい。
しかし後半に進み事件の全貌が明らかにされていくつれ、この仕掛けが續々と、さながら薄紙の底から滲み出してくるように浮かび上がってくるという構成が見事で、すべての謎解きが終わって犯人が明かされたラストで、事件の眞相とタイトルにもなっている「炎に絵を」の意味するところが讀者の前に現れるところも含めて完璧です。
現代の本格ミステリ的な視點で讀むと、本作のミステリ的テーマは「操り」。大小含めてこの幾重にも凝らされた操りがまた、事件の渦中にいる人物たちの思惑を巧みに隠していて、父親の汚名に関わる謎の実相が次々と反転を繰り返していく展開は、現代ミステリしか讀みなれていない本讀みにも充分アピール出來るのではないでしょうか。
本作のタイトルにも絡めた驚愕の眞相は本當に見事で、全てがこの一點に集束していく純朴君の最後の推理は壯絶。そしてこの恐るべき犯人の姿と、この人物がある場面で口にしていた台詞の真の意味、さらにはこの操りの起点からその動機に到るまでのすべてをこの人物を中心に改めて讀み直すことによって、物語の姿がまったく違った形となって現れるという趣向の小説的素晴らしさ。當にミステリ的な仕掛けが小説のとしての重厚感をつくりだしている傑作といえるのではないでしょうか。
操られまくりの純朴青年と、謎っぽい妾娘がいいカンジになるところがどうにもチープな昭和テイストを釀しいて、これが手の込んだミステリ的な仕掛けと素晴らしいギャップを出しているところが個人的には好みです。
人によってはこの主人公と妾娘との恋愛が浮きまくっているところが宜しくない、という評價になるんでしょうけど、樹下太郎みたいなリーマンミステリもタマラない、という御仁にはノープロブレム。ボンクラな自分としては、ひとつくらいこうした力を抜いた部分がないと、これだけの操りと伏線を凝らした逸品ゆえ、讀むのに疲れてしまいますよ。
で、本作なんですけど、1993年に書かれた作者のあとがきにはこんなことが書かれてありまして、これが今讀むと非常に興味深い。今回も自分が氣になったところは強調してあります。
そのころ、松本清張氏の出現で、「社会派」ミステリーということが、しきりに叫ばれていた。それにたいするのが「本格派」で、私などは後者に分類されがちであった。どうも私は分類が嫌いである。
分類できないものが理想ではないか、という気持が私にあって、『炎に絵を』を書いたころも、そんなことを強く意識していた。一種の挑戦であったといえる。
しかし世の中には「分類出來ないものが理想ではないか」という作者のような考えを許さない、何がなんでも物事は分類されなくちゃいけないと考えている方もいる譯で。こういう方っていうのは、そもそも新本格のミステリ作家の多くが支持する「虚無への供物」をどう讀んでいるのかなア、なんて考えてしまうのでありました。まさかあの作品では大きな意味を持っている洞爺丸事件のことなんてすべてスッ飛ばしてあの作品には社会派的要素は缺片もないッ、なんて考えているんでしょうかねえ。
さらにいえば、「新本格は、非写実主義の側面もあった」という認識のもと、やたらと社会派バーサス新本格なんて図式で當事の新本格ブームを述べていることにも、自分は疑問を感じておりまして、例えば我孫子氏の傑作「殺戮にいたる病」には社会派的な要素や写実主義的なところはないのか、とか考えてしまうんですけど、このあたり、この「困ったちゃん」の頭ン中ではどういうふうに理解されているんでしょう。
「殺戮」とか「葉桜」という作品は、當に「社会派」的、「写実主義的な要素」を「仕掛け」として新本格の図式に取り込んでしまった作品であって、この貪欲さと狡猾さは新本格の大きな特徴のひとつとして評價されるべきだし、アンチ社会派という側面から新本格を論じるのであれば、こういうところも言及してほしいなア、なんて考えてしまうのでありました。この點、島田御大の作品はいうに及ばず、団塊の世代は大嫌いだけど、どうにも団塊以上に社会問題をアジテートしてしまうという芦辺氏の作品にも同樣のことがいえると思うのですが如何でしょう。
で、このあたりの、敵方(なんですかねえ)の持ち味を取り込んで見事な變容を遂げていった新本格の樣相を、「A Trick of the Tail」と「Duke」を大きな起点として始まったジェネシスのポップス路線や、「Permanent Waves」以降のラッシュ、さらにはマリリオンの「Brave」やミスターシリウスの「ダージ」あたりと比較して、円堂都司昭氏に「新本格とプログレッシブロックの変容」みたいな主題で書いてもらいたいなア、なんて考えてしまうんですけど、駄目ですかねえ。