原理主義に非ず、原点回歸の遙かなる高みへ。
リリース當事單行本で讀んだ時には「天狗の面」の記憶も虚ろでアンマリ感銘を受けなかった記憶があるんですけど、……っていう記憶さえも曖昧だったので今回はジックリと讀んでみましたよ。
まずもって著者が八十七歳の時に書いたというだけでも驚異的なんですけど、更に驚くべきは推理小説に對する軸足がまったくブレていないところでありまして、以前の傑作群に比較すればディテールの點においてやや冗長に流れるところはあるものの、これとても「天狗の面」の時代から一世代を隔てて田舍から都会へと移りゆく舞台を緻密に描寫してみせたものと思えば納得がいくし、何より普通人が犯行へと到るその動機から推理の組みたて方に到るまで、めいっぱいに土屋節を効かせた作風に作者の作品の讀み續けたマニアは大滿足。
物語は、幽靈の突然の出没に盛り上がる長野の田舍町が舞台で、二度不可解な幽靈騒動が發生した後、今度は女が殺されてしまいます。目撃者の話によれば、女の死体が転がっていた死体の傍らにも幽靈がボヤーッと姿を見せていたということで、警察が件の幽靈事件と結びつけて考えてしまうの必定、「天狗の面」で活躍した刑事を父に持つ警部は果たしてこの事件の謎を解くことが出來るのか、……という話。
幽靈事件にでくわした新聞記者を怪しいと睨んだ警察が詰め寄るとこの男、自分にはその夜のアリバイがある、となんて聞いてもいないのに向こうの方から自信満々に嘯いたものだからこいつが犯人であることは明々白々。
殺された女とこの新聞記者の過去には少なからぬ繋がりがあり、……というところから彼の妻の死が事件の動機に大きく関わっていることが明らかにされていく後半、物語は俄然速度を上げていきます。エロと子供を絡めた動機はこれまた氏の作品では御約束なんですけど、今回のこれはあまりに鬼畜。
殺されて當然ともいえる女のワルっぷりに正直氣が滅入ってしまうんですけど、この妻の死を決定づけた事件というのが楳図センセの「恐怖」に収録されていた傑作短篇「とりつかれた主役」を髣髴とさせるアレだというところも何ともですよ。とにかくこの殺された女の極惡っぷりも本作の見所のひとつでしょうか。
會話の要所要所に何処となくユーモアが感じられるところも「天狗の面」を思い起こさせ、過去の事件の回想が天啓をもたらす展開もこれまた土屋ミステリでは定番でしょう。後半、犯人のアリバイ崩しにおいては妻との會話から思わぬヒントを・拙むという謎解きもまた然りです。
アリバイトリックの方は殆どバカバカしいまでに單純なものなんですけど、幽靈騷ぎに關しては何故犯人はこんな事件まで起こさなければならなかったのか、この事件に對する妄執の凄まじさがタイトルの物狂いを想起させるあたりが秀逸で、中盤まではユーモアキャラで通していた犯人がいよいよ警部の推理に追いつめられると物語の雰圍氣は一轉、非情と悲愴をもって眞實が明らかにされていく犯人の告白場面へと雪崩れ込む筋書きも素晴らしい。また犯人が告白の後に覚悟を決める最期が印象的なのは勿論なんですけど、終幕で「天狗の面」事件を探偵とともに解決に導いた父の姿に問いかけるシーンが心に響きます。
他の作者の傑作に比べれば確かに地味なんですけど、本文庫では作者のあとがきの言葉を引用して綴られた細谷氏の解説が秀逸。「天狗の面」の五十五年後に書かれた本作について「五十五年間の疾走の果てに、スタート地点へと戻ってきたというわけだ」と述べた作者の言葉に細谷氏曰く、
しかし、立っている位置がスタート地点と同じでも、場所が違う。この作品を書いた作者はスタート地点と同じ位置の、上の場所にいるのだ。なぜなら作者の疾走が、螺旋であったからだ。ここでいう螺旋とは、成長と同義語だと思っていただきたい。
「事件÷推理=解決」「いわゆる本格ものは、推理小説の楷書である」など、確固たる本格ミステリー観を持ち、それを実践した作者は、五十五年の歳月をかけて、巨大な螺旋を描いた。だからこそ、スタート地点と同じ位置に戻りながら、はるかな高みに到達したのである。そこに本格ミステリー作家・土屋隆夫の、誇りと、榮光があるのだ。
代表作である「危険な童話」や「赤の組曲」「針の誘い」「影の告発」、……ってほとんどすべてになってしまうんですけど、それらに比較すれば悲哀の強度こそ薄いものの、それでも堂々と水準作以上の作品に仕上げてしまうあたり、やはり作者の底力を感じさせます。
土屋ミステリを未讀の方であればまずは「危険な童話」あたりから、といいたいところなんですけど、これ、まだ絶版になってないよな、……ってアマゾンで調べてみたらとりあえず大丈夫みたいでひと安心。
本作は「天狗の面」を讀まれておいた方がより愉しめるかと思いますけど、土屋ミステリの代表作の一册でも既に手をつけておられる方であれば、この悲哀を十分に堪能出來るかと思います。新本格のような派手派手しさこそありませんけど、この風格は非常に貴重、若い人にこそ土屋ミステリを讀んでみていただきたい、なんて思うんですけどやはり地味ゆえに、難しいですかねえ。