山田正紀版 007。
後藤均の傑作「グーテンベルクの黄昏」を讀んでから、何かこれに似た歴史ミステリ系國際謀略ものはないかな、と考えていたんですけど、佐々木謙の三部作をここで出すのもあまりにベタだし、……ということで、國際謀略トンデモミステリともいうべき、山田正紀の本作を今日は紹介したいと思います。
物語は冒頭「私たちの内部には、相変わらず暗い場末が生きています、」というヤノーホの「カフカとの会話」の引用から始まる本作は、カフカが書いたとされる未發表原稿「処刑工場」という小説を巡る物語。
プロローグでは、戰前戦中の日本におけるシュールリアリズム運動についての報告書とともに、ユダヤ人に對する内務省の參考資料などが添えられています。そして香港と中国の国境地帯にあるシェンチェン川に夥しい數の白い花が流された(何かこの描写、連城チックですねえ)ことがニュースで報道されたことを「わたし」が語るところから、次の第一章「流刑地で」へと續きます。
主人公の「わたし」は「流通通信」という業界紙の記者である佐伯という男で、彼は何かトンデモないことをやらかして仕事仲間からつけねらわれているようす。女の部屋から出て來たところで危ない目にあったところを、學生時代からの友人石黒に救われるのですが、わたしはそこで石黒からある仕事を依頼されます。
その仕事というのが、香港へ行って、中國で發見されたというカフカの未發表原稿「処刑工場」を見つける、というもので、わたしは彼にいわれた通り、香港へと赴き、……というふうに話は進むのですが、とにかくこの作品、香港に行って殺人事件に遭遇したけど結局は原稿をゲットして日本に帰ってくるとまた色々あって、今度はちょこっとプラハに行って原稿の解讀を依頼して、最後はまた香港に行って、……というかんじでとにかく場面の展開がせわしないのですよ。このあたりが、冒頭に書いた山田正紀版007と感じた所以でありまして、脇を固める登場人物たちも妙に個性的な連中ばかりであるところも映畫的であるといえましょう。
香港に到着するや、わたしを案内することになった美人ガイドが僞物であったり、金持ちのユダヤ人實業家に會いに行ったところで殺人事件に卷き込まれたかと思ったら実はそのユダヤ人は生きていて、はたまた香港に行く前に會った大學時代の恩師はこれまた僞物だったりと、とにかく主人公のわたしが騙されまくる前半は、サスペンスフルに展開します。
「処刑工場」がありきたりの小説ではなく、ある恐ろしい計畫を祕めたものであることが明らかにされる中盤以降は、敵の正体が朧氣ながら見えてきて、何となく半村良の小説めいた展開になってきます。ナチス、戰中の日本の謀略機關と怪しげなテイストが絡めつつ、後半ではこの小説の舞台となっている時代背景にもリンクさせながら盛り上げていく筆捌きは見事、……といいたいんですけど、今ひとつB級テイストが濃厚に過ぎて、盛り上がりに缺けますねえ。
宿敵というのが、「牛乳瓶の底のようなブ厚い眼鏡をかけ」た痩せぎすの若者で、こいつがライフルをダダダダッとブッ放したりするんですけど、この男が主人公の前に登場した時の恰好っていうのが、スヌーピーのTシャツに赤いレザーのジャンパー。いくらライフルを構えて傭兵めいた活躍を見せても最初のインパクトがあまりに強すぎてどうにもいけません。もっとも最期も主人公に助けてくれ、と命ごいをするようなヘタレぶりを見せる始末で、まあ、その意味では期待通りの動きをしてくれるんですけどね。
更に謎の女、ということで、主人公が香港に到着したときにガイド役として姿を現した美女ですがこれもちょっと。主人公に差し出した名刺に書かれた名前は宋美齡、更に自分の紹介をするときには「チャンと呼んでください。ミス・チャンです。アグネス・チャンとおなじ、……」というところなど、いくら中國語讀みが分からないといっても、宋美齡って名前見ただけでこれが僞名だって分かりませんかねえ、主人公のわたし。僞名とはいえあまりにベタ過ぎますよ。更に、チャンといえば、「張」な譯で、「陳」とか同じくらいメジャーな名字なんですから、「宋」と違うくらいはおおよその察しがつかないものかと。
この謎の女はそれ以降まったく姿を現さないのでどうなっちゃったのかなあ、と思っていますと、物語も最後の最後で唐突に再登場、敵だか味方だか分からなかった彼女の正体が明かされて、それがプロローグのシーンに繋がります。どんな美人が現れても、主人公の男性といいカンジになったりしないのが、いかにも作者の小説らしい。しかしハードボイルド、歴史謀略ミステリ風味の本作にしては些か淡泊に過ぎないかなあ、とも思ったりするのでありました。
構成はメタメタながら、「処刑工場」というタイトルから釀し出されるおどろおどろしい雰囲気や、後半で明らかになる不氣味な謀略から伝奇ミステリっぽい展開になるところなど、B級テイストのミステリを愛する人にはなかなか愉しめる仕上がりとなっています。作者の作品の中ではレアものといえそうですけど、改めて讀み返してみると、香港とはいえ中華テイストが效いているところなど、後の「ミステリオペラ」へと連なる風格を見いだすことも出來る作品で、山田正紀のファンでしたら讀んでも損はないと思います。