えー、今回は文字反転させずにネタバレすれすれで感想を書いていきます。何が何やら分からない人もいれば、自分のいいたいことを全部分かってしまわれる強者もいるとは思いますが、そこはそれ。本作は讀んでいなくとも、以下の文章で引用されるアノ作品って何だろう、などと妄想を働かせ乍ら讀んでいただければ幸いです。
ミステリのなかでも「アレ系の話で何か凄いのってないですか?」みたいな質問があったときには必ず話題に上る本書なんですけど、自分は正直、あんまり衝撃を受けませんでした。物語は「失脚した王とともに、ちいさな別莊に幽閉されている盲目の姫君レイア」の話から始まり、中盤に至ってこのお話がひっくり返るのですけども、前半を讀み進めていくにつれて何となくこんな話じゃないの、と察しがついてしまいます。
ましてや新本格の洗禮を受けているひとであれば、ああ、この雰圍氣、この展開は西澤のアノ作品っぽいし、いやいや島田のアレってかんじもするし、……なんて妙な邪推を働かせてしまうことでしょう。実際、色々と仕掛けを凝らしてはいるのですけど、こんなふうに眉に唾をつけて讀んでいると、自分のようにあんまり驚けません。
本作の場合、物語の転換がいくつかあって、まずは前半のレイア姫の話から、「囚われの身」という章に至ったときがひとつ。そして後半にもうひとつ仕掛けがあって、実はこの物語は……ということが明らかになります。一応、アレ系の話のなかでは傑作との評判なので、先入觀を持たずに取りかかればなかなか愉しめると思います。
それでも繰り返しになりますけど、西澤のアレと島田のアレを讀んでいるひとはお氣の毒です、……っていうのは既にネタバレですかね。
それでもやはりこの二つの作品と比較してみたくなるのがミステリ好きの性というやつで、まず島田荘司のアノ作品と比較すると、妙に衒學ぶったところがないのが本作のよいところ。本作でも古今の小説や繪畫、そしてグノーシスの蘊蓄がないことはないのですけど、さらっと流す程度。舞台装置としては西澤のアノ作品の方が個人的には好みです。何というか何処にいるのか分からないという不安感、イヤ感みたいなものが西澤のアノ作品では強烈でした。もうひとつ比較出來る作品があるとすれば泡坂妻夫のアレなんですけど、これは讀んでいる人も少ないでしょう。レイア姫が実はアレだったことが物語の中盤で明らかになるところが泡坂のアレと同じなんですよねえ。
今となってはちょっと古いかんじはするんですけど、本作で用いられている作風はまさにアレ系なので、うまく作者に騙されれば大いに愉しめること請けあいです。