佐々木俊介の「繭の夏」を讀んでから、あのころの創元推理の小説を讀みかえしてみたくなり、數日前にまとめ買いしてきました。
鮎川哲也賞出身の作家も含めて、あの當事の創元推理の作品って獨特の香氣があったように思うのです。
若竹七海のデビュー作となった本作も、そんな當事の創元推理の特徴が際だった端整な作品に仕上がっています。本作は北村薫をはじめとした「日常の謎」系に分類されるかと思うのですけど、実はちゃんと(?)人が死んでいるんですよ。連作短篇のなかの一作で。まあ、それが後半、これから始まるのかもしれない事件の伏線になっているところが、この連作のちょっとした仕掛けになっていて、これがいい。
文庫になっても、社内報に連載された匿名作家による連作短編小説という體裁はそのままに、一作一作のはじめには「ルネッサンス」という社内報の目次が掲載されています。
もうこの小説を單行本で読んだのはずーっと昔のことで、一作ごとの内容もすっかり忘れていたんですけど、何故か「吉祥果夢」と「消滅する希望」だけは憶えていました。というのも、この二作、十二編ある短篇のなかでもかなり浮いているんですよ。まあ、それが最後の、「ちょっと長めの編集後記」で展開される謎解きに絡んでくるんですけどね。
最初の「桜嫌い」から「箱の虫」までは、謎が提示されそれが物語のなかで解かれるという推理小説の基本樣式に從っているのですけども、その次に續く「消滅する希望」と「吉祥果夢」だけは奇譚めいた終わり方をしていて、物語の最後になってもはっきりとした謎解きは行われません。何か妙だなと思い乍らも先を進んでいくと、まあ、色々な小技を繰り出しては讀者を翻弄してくれることしてくれること。例えば「バレンタイン・バレンタイン」などは笹沢左保の「同行者」を思わせるような全編会話で他愛もない話をして終わりかと思いきや、その形式自體にに惡戲っぽい仕掛けがしてあり、思わずにやりとさせられてしまいます。こういうのは結構ツボですねえ。
ただ時代を感じさせるなあ、と思ったのが軽すぎる會話の調子とそのなかでふれられるアイテムで、アイタタタと思ったのが、「ラビット・ダンス・イン・オータム」の以下の會話。
「あたしは円山さんと違って、ひとりランバダなんて踊れないよ」
若い御仁には「えっ?何?ランバダって?」というかんじでしょうけども、このランバダ、當事マスコミが盛りたてて流行らせようとした踊りのことでありまして、今となってはあのブーム(っていうか、ランバダブームって本當にあったのか? サタデー・ナイト・フィーバーとかジュリアナは流行ったと思うのだけど)って苦笑なくしては回想することも出來ないような代物ですよねえ。
二階堂黎人の「軽井沢マジック」で取り上げられていたパソコン通信と同樣、その當事の風俗を小説に取り入れることの難しさを感じたりもして。
いやもようく考えてみると、これは小説に風俗を取り入れること云々というよりは、小説のなかに書かれた時代そのものに問題があるのかもしれませんねえ。
自分のようなオッサンにとっては八十年代の狂瀾と九十年代のバブル崩壞後の日本っていうのは本當に奇妙な時代でして、本作でチラっと述べられているランバダなんていうのも當にそのような時代に現れたひとつの「ブーム」だった譯で、若竹七海が惡いというよりはここはランバダを責めるべきでありましょう。
ところで「写し絵の景色」の最後の方でぼくが電話をかけた「ヴァイオリンを彈く趣味があって、アマチュアのオーケストラに入っている」植物學者って、もしかして沢木敬のことですか?いや、同じ立教大学ミステリ研なんで、そういうお遊びなのかな、と思った次第。