若さゆえ。自由時代を回顧する。
「21世紀本格」に續いて再讀してみました。單行本で手に取ったのもずっと昔、二十年近くも前の話な譯で、第三の波の衰退だの終焉だのが語られている昨今、改めて當事の熱氣を振り返ってみる意義も叉あるのでは、なんて感じて讀み進めてみたのですけど、日本人論をアジテートする最近の御大のスタイルがそれほど全面に押し出されていないところから論點も・拙みやすく、御大の本格ミステリー論の原點を知るという意味では今でも十分にオススメ出來る一册といえるのではないでしょうか。
また新本格はガキのオママゴト、みたいな批判を行っていた人物が名指しで語られているところにも注目で、このあたりの恨み言というか負の力が新本格を牽引してきた一面もあるのではないかなア、なんて考えつつ、冒頭の「本格ミステリー論」における我孫子氏の推薦文に目を通したあと、本作の一番の見所である座談會「新」本格推理の可能性PART IIを讀み返してみると、御大と我孫子氏との意見のすれ違いに思わず苦笑してしまいます。
この座談會の面子というのが、御大のほか我孫子、綾辻、歌野、法月の四氏をくわえた五人でありまして、この當事の法月氏には卓越したクイーン論でミステリマニアを魅了する現在の姿は微塵もなく、クイーンに萌える一作家、みたいな雰圍氣で御大と我孫子氏との意見のすれ違いに對しても果敢にツッコミを入れていくようなところはありません。
綾辻氏は綾辻氏で、ジャンルとリアリズムに關してそれぞれの意見が限りなく食い違いを見せていく樣子を見かねて「何故ある一部の作品を除いた現代の本格ミステリーが面白くないのか、という問題」へと話題を轉じさせてはみるものの、「スピリット」という言葉の意味合いについてこれまた話が脱線を見せたりと、どうにも話がかみ合わない場の雰圍氣に、見ているこちらはもどかしさばかりを感じてしまいます。
我孫子氏のジャンル分けに對する意見には自分も同意出來るし、綾辻氏の「スピリット」についても頷けてしまう自分としては、もしこの場に今の巽氏とか千街氏とかがいたらもっとモット素晴らしい議論を展開させることが出來たのではないかなア、なんて思ってしまうのですけど、その一方で、同じ新本格とはいえ、それぞれの作家の、異なる風格を許容してしまう鷹揚さが感じられるところは、「繩張り意識と定義を混同」して本格ミステリという場を内部から自壞させようと目論む集團が跋扈する現在の本格ミステリ業界と比較するにつけ溜息が出てしまうのでありました。
この座談會を「容疑者X」騒動以後に讀み返してみると、ドキリとする指摘もあったりして、例えば、我孫子氏と島田氏が倒叙ものについて意見を交わしているくだりでは、
島田 「倒叙」形式で書きはじめられた小説なんだけども、実は彼は狂人で、犯人ではなく最後にドンデン返しがある、ということもあり得ますね。
我孫子 ええ、それもあり得ますね。それもあり得るし、本当はそいつが犯人なんだけれども、別の意味でなんか、きわめて僕たちが「本格」と呼びたいような、鋭いトリッキーな仕掛けが施されている場合があると。でも、それは「本格」っていっちゃいけないと僕は思うんですよ。ジャンルなんだから、「倒叙」は「倒叙」なんですね。
島田 しかし、その場合作者の意図として、「倒叙」としての形式そのものがミスディレクションですね?だから、その視点を「本格」の側からに移して、むしろ「本格」に入れちゃっていいんじゃないかしら。
我孫子 いや、それは僕は、入れたくなります。なりますけれども、それは「本格」のスピリットを持った「倒叙」なんであって(笑)、それは明確に分けないと、ジャンルがジャンルでなくなってしまうから駄目なんですね。……
島田御大としては、倒叙の仕掛けに着目して作品を「本格」の中に括りたいのだけれども、我孫子氏はその作品の形式に力點をおいていることが分かります。個人的に興味深いのは、この議論からは、ここで語られているような「「倒叙」としての形式そのものがミスディレクション」である形態を持った作品を「本格」に含めることによって、どのような効果が本格の分野に期待出來るのかという議論がスッポリと拔け落ちているところでありまして。
例えば首領が自らの本格推理の定義を持ち出してきて、「容疑者X」を本格ではない、と声高に叫ぶところには、自らの作品が本格として評價されない現状に對する不滿表明という側面が透けてみえる譯で、その意味では首領の行動はボンクラの自分にも非常に分かりやすいのですけど、我孫子氏がここで「本格」というジャンルにかくもこだわってみせる理由が見えてこないところがもどかしい、というか何というか。
また、本格ミステリのガジェットである探偵についても、重要なキャラのひとつという意味合いでしか語られていないようなところも感じられる一方、この座談會が千街氏の評論集「水面の星座、水底の宝石」や達人巽氏の手になる「論理の蜘蛛の巣の中で」以前であることを考えればこれも納得、でしょうか。
この座談會の中で一番ツボだったのは歌野氏の意見でありまして、「本格ミステリー」に對する基本的な姿勢や、自分自身の「本格ミステリー宣言」を述べているくだりにはウンウンと大きく頷いてしまいました。「葉桜」以後の今だからこそ、ここで歌野氏が語っている本格ミステリーに對する思いはより深く理解出來るのではないでしょうか。逆にいうと、歌野氏の本格ミステリに對する姿勢はデビューの時からまったくブレていないことが分かります。
綾辻氏との對談「「新」本格推理の可能性」は、「本格ミステリー舘」と同様、御大と綾辻氏との微妙なすれ違いにこれまたもどかしさを感じてしまう内容ながら、「幻影城」について述べていた以下の部分に連城ファンの自分としては大注目でありまして、ちょっと長いのですけど引用するとこんなかんじ。
……純本格の可能性というふうに誘導されるなら、すぐに気になることがひとつあるんです。それは何かといいますと、「幻影城」の島崎さんという人が言われていたことなんですが、かつて乱歩さん、横溝さん、高木さんまで続いてきた日本の探偵小説の雰囲気というものがぷっとり途絶え、いっせいにみんなが右へ習えするように社会派の方へ行ってしまった。社会派も非常に価値のある小説だけれども味気ない。少なくとも乱歩さんの的な作品を好んできた人間には味気ない。この両方の良さを踏まえ、統合するような形で小説が現れてくれないかと考えていた。そこに連城三紀彦さんが現れて、自分は本能的に、これが二つの魅力を統合する新しい日本の推理小説だと直感した――ということを書いていましたね。だけど島崎さんが推理文壇から姿を消してしまい、連城さんはいわば刺激してくれる人を失って、恋愛小説の書き手の方に徐々に向かっていく。もちろん、それはそれで本当に素晴らしいことですけれども、少なくともかつての本格と社会派の統合の可能性を持った人ではなくなりつつあるわけです。
島田御大をもってしても、當事の連城氏の作品を本格ミステリからの後退としてしか評價出來なかったところは非常に殘念、なんて考えてしまうものの、今こそ、妙チキリンな評價しかされてこなかった「恋文」以後の連城氏の作品も、本格ミステリの技法や技巧の側面から讀み直されるべきなのではないかなア、なんて考えてしまうのでありました。
今年は新本格誕生からの記念すべき年、ということで、本作のような當事の資料を読みかえしてみる意義もあると思います。本作を讀むと、本格ミステリに對する危機意識というものについては昔も今もマッタク變わっていないところにこれまた苦笑してしまうものの、御大がこの中で既に指摘している日本の出版流通制度に關する問題提起などは未だに有効だとも思えるし、本作を讀みつつ、當事の本格ミステリ文壇にあった「危機」と昨今の本格ミステリが抱えている「危機」との差違について考えてみるのも一興でしよう。