特集の内容から米澤ファンにとってのマストアイテムであることは勿論なのですけど、笠井氏との對談「ミステリという方舟の向かう先」や、蔓葉信博氏の「波動変遷」、さらには達人巽氏の手になる「砂漠通信」など、現代の本格ミステリに興味があるマニアであれば絶對に読み逃せない論考もテンコモリの一册です。
もっとも道尾氏や北山氏と竝んで現代本格の最先端を行く米澤ミステリを取り上げるとあれば、その内容が現代の本格について論を進めたものとなるのは必然で、その意味でも巽、蔓葉兩氏の論考は非常に読み應えのあるものに仕上がっています。
蔓葉氏の「波動変遷」は副題に「新本格と日常の謎」という言葉を添え、笠井氏が「ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?」で指摘している通りに、新本格の期間を三つのステージへと區分けするとともに、その「第一ステージで整理された三方向」についての再檢討を行っていくというもの。
後半に展開される探偵小説の図式も魅力的乍ら、個人的には、本格ミステリの技法がいかにして讀者を感動させるのか、――その仕組みについて解き明かした部分が秀逸でした。
例えば「氷菓」における謎の提示の方法について述べたくだりで、「……その心情が謎として論理的に解明されることで、いや、論理的に解明される過程によって、読者は心打たれるのだ」と指摘しているところや、「笠井氏が分類した三つの方向を統合するかのような作品」を挙げたところにおいて、西澤氏の「殺意の集う夜」を挙げて、「……だが、そこから逆説的に人という生き物の醜さを感じるのは僕だけではあるまい」と述べているところでしょうか。
登場人物の心情が「論理的に解明される過程によって」、或いは「伏線の美学」から人間を描き出すという技法こそが、ずっと昔から議論となってきた「ミステリにおいて人間を描く」ということの回答に繋がっているような氣がするのは自分だけでしょうか。
またこの蔓葉氏の指摘を、笠井氏が今月の「ジャーロ」で言及していた内容や、この號に収録されている米澤氏との對談の中で笠井氏の考えている本格探偵小説についての考察に繋げてみるのも一興でしょう。
笠井 本格原理主義者の大多数は、本格探偵小説を「パズル+小説」あるいは「小説仕立てのパズル」だと思い込んでいるようですが、僕は意見が違う。パズルが小説を侵犯しようと企て、しかし侵犯しきれずに小説になってしまうのが探偵小説だと思っています。……
「人間を描く」という小説部分と、謎の論理的解明というミステリの構造を引き離して作品を評價することに何ともいえない違和感を持っていた自分としては、ここ最近の笠井氏の本格ミステリに對する見方には頷けるところも多く、個人的には「容疑者X」の呪縛から解放された笠井氏の今後の活躍に大期待、……ってこれは米澤ミステリの特集號なので、再び話をそちらに戻しますと、巽氏の「砂漠通信」では「ボトルネック」の分析において、この作品を法月氏の「再び赤い惡夢」と對比しつつ、この作品のもっている「推理小説の宿命的構造」を解き明かしていくところの技が素晴らしい。
また、推理と謎解きをとっかかりに米澤ミステリの構造を分析してみせた佐藤俊樹氏の「零度のミステリと等身大の世界」も興味深く、特に「小説と謎解きの等価性」や「名探偵の強度」の中で、米澤ミステリにおいては「小説と謎解きが等しい」と指摘しているところには成る程、と思いました。
という譯で、魅力的な論考がテンコモリながら、やはり個人的に一番愉しめたのは、笠井氏と米澤氏のキャラ立ちが素晴らしい二人の對談でありまして、本「ユリイカ」は米澤氏の特集ゆえ、對談とはいえ基本的には笠井氏が聞き手、米澤氏が語り手という體裁をとるかと思いきや、相當の部分で笠井氏が自説を大々的に展開させ、時には米澤氏が笠井理論についてツッコミの質問を行うという転倒ぶりが堪りません。
例えば、道尾氏や北山氏の作品を話題にミステリの話で盛り上がっていたところへ、「社会と衝突していくタイプの小説をいま書いたとしても、おそらく読者にとってはリアリティがないと思う」と米澤氏が述べるや、「社会」という言葉が出てくればもうやめられない、とまらないといった具合にここからは笠井氏の社会批判も交えた独演會がスタート。
「二十一世紀社会」、「フリーター」「豊かな社会」、「小泉的なネオリベラリズム的社会再編」といった得意分野の言葉も交えてひとしきり自説を竝べつつ、ようやく話が「第三の波」へと戻ってはきたものの、それでも突然の話の展開に消化不良の米澤氏は、「第三の波が、豊かな社会に対するアンチテーゼであったというのはどういうことでしょうか」と自分が主役であることも忘れて、笠井氏の独演會を促してみせるところが個人的にはツボでした。
そのほか鮎川、都筑両御大の二つの流れの中で「戦争体験」の違いについて述べたところでも「そこのところをもう少しくわしくご説明いただけませんか?」と質問を向けてみたりという具合で、米澤氏の人柄と笠井氏のアジテートの激しさも同時に愉しめるという構成に、米澤ファンのみならず、笠井氏のファンにも堪らない内容に仕上がっているところがマル。
この對談の中では、いくつか興味深い指摘もあって、例えば笠井氏が、最近は古典的本格はあまり歡迎されていない、というところを述べたくだりでは、
いま主流なのは、ずっと読んでいくと、最後のところで地と図が引っ繰り返ってびっくり仰天する、その一瞬の驚きを中心に据えたものですね。なぜ引っ繰り返るのか、緻密に論証するような部分はないほうがいいとされはじめている。
とあるのですけど、成る程、これだと氷川透センセのようなネチネチロジックで魅せてくれる作風は歡迎されないよなア、なんて思う一方、それでも石持氏の作品が評價されている現状も考えると、果たして笠井氏がここで述べているような作品群をそのまま主流としてしまっていいのかどうか、そのあたりに興味がありますよ。
また個人的には、再讀によって物語の中に込められた「伏線の美学」を味わうという愉しみ方も存在する筈だし、最後に讀者を「引っ繰り返ってびっくり仰天」させるのではあれば、そこには周到なミスディレクションの技法が求められるのではないかなア、と思ったりするのですが如何でしょう。
あとちょっと分からなかったのが、編集部氏が北山氏の作風について述べているところで、
北山さんが特異だと思うのは、西澤保彦さんだったらSF的な世界の設定が謎解きとリンクしているわけだけれども、北山さんの場合は特にトリックとその世界がそうである理由は関係していない。
とあるのですけど、確かにここで具体例としてあげられている「「クロック城」殺人事件」については何となく指摘通りのような氣もするものの、「少年檢閲官」は當にあの異樣な世界でなければ成立しないトリックがキモとなっていた譯で。
またSF的な世界を外れたところでも、「アリス・ミラー城」であればあの眞相だからこそ、アリス盡くしの城が用意される必要があったのだし、「瑠璃城」でも、最後のさかしまな眞相には、あのパラレル・ワールドとスノウウィという奇天烈な探偵の設定も必然であるように自分には感じられました。
さらにいえば、「ギロチン城」でも「首狩り人形」の眞相がアレだったからこそ、登場人物の名前も道桐一、二、三――これを本格理解「派系」作家フウにいいかえると、1th、2th、3thというように徹底した記號化を行う必要があった譯で、この編集者氏の指摘が正しいのだとすれば、終末めいた物語世界はその眞相と密接な連關しているように感じたのも、單なる自分の深讀みに過ぎなかったのかなア、なんて考えてしまいましたよ。
この對談のほかにも、現在、個人的にはもっとも注目している編集者、桂島氏の文章が掲載されているところも桂島ファンには見逃せないところで、現代本格の動向に興味のある方は是非とも一讀をオススメしたいと思います。