「涙流れるままに」を讀んで、何だか昔の吉敷や通子はどんなかんじだったんだろうと思い、北の夕鶴を読みかえしみようと思った、……って本棚を探しても見つからず、結局また光文社の新しい表紙のやつを買ってしまいましたよ。でも、前の方が良かったですね、表紙のデザインは。何かこの新しいやつはどうにも素っ氣なくていただけない。それともうひとつ驚いたのが、この作品って、ノベルズで出たのが八十五年ですか。もう二十年近く前の作品ということになる譯で。ある意味古典ということになる。
それでもこの作品のインパクトは當事と変わらず相当なもので、謎の提示とトリックは寧ろ今の島田莊司の作品よりもブッ飛んでいる。
當事は通子の過去についてもあまり氣にしていなかったのだけども、後半彼女が告白する幼少時の過去は、「涙流れるままに」を讀んでその詳細を知っているだけに心に迫る。推理を行う吉敷も藤倉兄弟にシバかれてひどい状態。
藤倉兄弟の描写が時代を感じさせる。リーゼントで、いかにもズベ公という形容が相應しい女と、莨を吸いながら店の前でダベッていたりと、ちょっとイタい描写もあるけども、まああの當事のワルぶった大人って未だにリーゼントでしたよね。「この野郎が通子を裸にしてヤク打って……」なんて考えると藤倉兄弟に対する憎しみはいやが上にも増してきて、滿身創痍の吉敷に頑張れッと声援を送りたくなる。
事件が終わったあとの、吉敷と通子のやりとりはちょっとこちらが赤面してしまうようなお話で、これもまた「涙流れるままに」と同じ。吉敷の作品では現在のところ、「奇想」が一番の傑作だと思うけども、次を挙げろといわれたらやはりこの夕鶴かな、と思う次第。御手洗ものに負けないくらいのインパクトを求めている人にはマストな作品といえよう。