不幸の小説、不幸な小説。
恐らく自分が求めているような小説とは全然違うんだろうなア、と思いながら讀み始めたんですけど、そういう意味では期待通り(爆)の作品でありました。
ジャケ帶には「十年に一度の恐るべき衒学ミステリ巨編」大森望氏」とあって、大森氏の名前があるところからして、自分的にはワーニングランプが激しく点滅を始めてしまった譯ですけど、氏の「これは現代の『虚無への供物』か」という言葉に一パーセントの信頼をおきつつ購入してしまった次第です。
で、結論からいうと全然「虚無への供物」ではありませんよ。この點、「賣る爲だったら何だってやってやる」という大森氏のポリシーがビンビンに感じられる推薦文には氏の持ち味が十二分に発揮されていることを確認出來たことは収穫でありました。
要するに大森氏の言葉に騙される方が大馬鹿モノなのであって、ここでは大森氏を批判するべきではありません、……何て書いていたら全然物語の紹介もしないで終わってしまいそうなので、とりあえずあらすじだけでも先に済ませて、このあたりの話は後述したいと思います。
意味深なプロローグのあと、舞台は戦中を思わせる和歌山県へと飛び、譯ありの怪しげな研究所へと向かう車中で、不老不死の研究だの南方熊楠だのオコゼだのソシュールだのパロール形態だの『和漢三才図会』だの天照大神だのイザナギだの石長比売だのヴィトゲンシュタインの『論理哲学考』だのコノロシだのといった蘊蓄を男二人が延々と喋りまくる場面が續きます。
この過去のパートが終わってからが本筋で、怪しいクラブを舞台に若者たちのトンガった青春群像と壯絶な蘊蓄が「オジさんから見た若者」フウの會話文を交えて描かれたあと舞台はようやく警察のパートへと移り、ここから奇妙な連續殺人事件のことが語られていきます。
しかしこの警察の場面の前半部に入っても、蘊蓄のマシンガンはとどまるところを知らず、物語の主要人物となりそうな警察連中がしでかした突飛なエピソードも交えて、「可能性(ヴァーチャル)と擬似性(シュミレーション)による生の過剰世界」とかいった陳腐な言い回しも開陳しつつ、香水とかHIVなどといった連續殺人事件の被害者のミッシングリンクにまつわる事柄が読者の前に提示されます。果たしてこの連續殺人の犯人は、そしてルーシー.Dの正体は、……という話。
とにかく怒濤の蘊蓄も含めて、登場人物が周囲の空気も無視してひたすら喋りまくるところが本作の見所でもあり短所でもある譯で、饒舌な語りが釀し出す「サムい」空気が現代の虚無感を表出しているところを讀みとれない方にとって、この前半部は當に苦行。
警察といいつつリアリティを抛擲した、いかにも漫画チックなキャラや、インターネットの謎サイトから噂が伝搬していくといった、今となってはあまりにチープな設定、サチ、マリコ、ツクモといったカタカナ名前の登場人物、「パクリじゃん!」「つーか、指キモイっつーの!」「ここぉ!ツクモがこっちにいんのぉ!」「――ホールダップ」「ぶっちゃけ七〇年代だか八〇年代だかそんな時代のことはどうでもいいっての」などといったサム過ぎる會話體なども含めて、すべてがエナメルっぽい人工性に充ち滿ちているところが本作の風格です。
蘊蓄を繰り出すところの文体や妙に「オジさんから見た若者」言葉を駆使した安っぽい會話など、物語を構成しているすべてがアレっぽく感じられるのですけど、これはひとえに現代の虚無とチープさをあるがままの姿で描いてみせようという作者の意図だと思うのですが如何でしょう。恐らくこの頗る人工的に感じられる文体は作者が持っている本來のものではなく、この物語のためだけにつくりだされたもののように感じられます。
ここにはつくりものの現実しかなく、物語全体を通して現実と対峙しようという作者の意志を自分は感じ取ることが出來ませんでした。したがって、讀了後も、そこに残るのは虚無だけで、読者に切っ先を向けて現実との対峙を迫る「虚無への供物」や「赫い月照」のような風格は感じられません。作者が向かっているもの、見ているもの、そして読者に求めているものすべてが『虚無」や「月照」とはまったく異なる譯ですよ。
さらにいえば、衒學に對するスタンスも「虚無」や「月照」とは違って、寧ろ前半部に怒濤のごとく繰り出される蘊蓄は、言葉を重ねても重ねても、結局それは何も語っていないという虚無感を現出させる爲だけに使われているゆえ、物語の本筋、というか本作で提示される「事件」に大きく関わるものではありません。
勿論、そこで語られている「こと」と、連續殺人事件の背後にある意図は、最後に犯人の告白によって明かされるのですが、それとてもそもそもが輕薄な現代に出現した歪んだものであるがゆえに、その關連性が明らかにされたあとも空しさだけが感じられるという具合で、すべてにおいてひたすら輕薄であるところが本作の最大の特徴です。
しかしこれはこの作品の欠點では全然なくて、そもそも作者はこの輕薄な現代をこの物語の中に現出させようとしたのではないかと。もし自分のこの讀み方が正しかったとしたら、作者の試みは大成功しているといえるでしょう。このあたりは讀み方によって大きく評價が分かれると思います。
という譯で、決して駄作でもないし、問題作でもない、というのが自分の結論であります。ただ、自分が讀みたい本ではなかった、というだけでありまして。
では次、この本を「作品」ではなく、一册の本という「商品」として見た場合、どうかというと、……これこそが今回声を大にしていいたいことなんですけど、この「商品」はやはり失敗作といえるのではないでしょうかねえ。
というのも、まず大森氏に推薦文を依頼したというところからしてアウト。上に述べた通り、大森氏は本作を購入するターゲットに「虚無への供物」の讀者を「狙って」いる譯ですけど、「虚無への供物」のような物語を期待して本作を手に取った讀者は恐らく失望するのではないでしょうか。方向性がマッタク違う譯ですから。
一方、本作を讀んで満足出來るであろう購買層をシッカリと見定めて素晴らしい推薦文を寄せているのがオリオン書房ノルテ店の白川浩介氏で、氏は以下のように書いています。
作者は「ルーシー・デズモンドは誰か」ではなく、「ルーシー・デズモンドは誰でなかった」を書きたかったのではないか。ルーシー・モノストーンが伝説の人物だったように、登場人物を幾らシンクロさせ樣々な言説を翻しても「影」が濃くなるばかりで実態はますます見えて来ず、常に中心はぽっかりと空いている。
この文章のポイントは白石氏がルーシー・モノストーンの名前を挙げているところで、実際、讀んでいる間自分には大塚英志の「影」がチラチラ目について仕方がなかったんですよ。冒頭の偽史フウ蘊蓄會話は「木島日記」や「北神伝綺」を髣髴とさせ、警察のパートやその間に挿入されるシーン、さらには内臟をくり拔かれたグロ死体なども含めてその雰圍氣は「多重人格探偵サイコ」風。
本作の購買ターゲットは「サイコ」や大塚英志が好きな読者層に絞るべきであって、このどうにもよく分からないボヤーっとしたジャケを田島昭宇のクールな絵柄に置き換えて、さらには挿画も入れたりなんかすれば、カルト的な作品ということでサブカル系の雜誌などにもトンガった推薦コメントつきで絶賛されたんじゃないかなア、なんて思うんですよねえ。
本作の作者には大塚英志のような老獪さや山師的な部分が缺けていて、非常に惜しい。このあたりは担当の編集者がしっかりフォローしてあげるべきでしたよ。大森氏の推薦文というだけで拒否反応を示してしまう自分のようなミステリマニアはジャケ帶に彼の名前を見ただけで手に取らないだろうし(っていうか、こういう人は少數派ですかねえ)、「虚無への供物」を期待して本作を手に取った讀者は怒り狂って騙されたッ!もうこの作者のものは讀まないッ!なんてことになってしまうんじゃないか、とそれだけが心配なのでありました。
繰り返しますが、これは作者の責任ではありません。この作品をアピール出來る讀者層というのは確実に存在すると思うし、個人的には「虚無への供物」を絶賛している自分のような購買層よりもそっちの方が多いんじゃないかな、と。だとしたら編集者が大森氏に推薦文を依頼したのは大失敗では、と溜息が出てしまうのでありました。
本作は自分がこのブログで取り上げるような作品では全然ないんですけど、「「ぼくたち」の時代が求めている「ナウい」物語を書ける大塚英志はやっぱり神だと思うんですよ。あ、「おたく」もそう思う?でしょでしょ」なんていう方はかなり愉しめるカモしれません。
というか、自分のようなミステリ寄りの本讀みではなく、どちらかというと普通の本讀みのどなたか、この作品を讀んで評價してくれませんか。このまま「虚無への供物」を期待したミステリマニアが手にとってガッカリ、だけではこの本があまりに不幸だと思います。
[10/02/06 追記]
物語にふさわしい文体を人工的に構築する、という作者の手法が何となく古川日出男に近いように感じられ、そう思うと「13」や「沈黙」、「サウンドトラック」にも共通する何かが本作にもあるような氣がしてきました。確認の意味も込めて、機會があったら作者の他の作品も讀んでみたいと思います。