今月の野葡萄ですが、ジャケやレイアウトのデザインに大きな変更はないものの、内容の方はかなり氣合いが入っています。
島崎博御大によるポーの推理小説からミステリの原點を探る「推理小説的原點」の後編を収録するとともに、何よりも嬉しいのは既晴氏のインタビューが掲載されていることでありまして、日本で唯一人(多分)の既晴ファンである自分としてはこの記事は嬉しい限り。そのほか、ファウスト台湾版の御披露目、太田編集長と乙一氏の来台レポートなど、日本のミステリファンだったら見逃せない記事がテンコモリですよ。
で、まずは先月號から續いている島崎御大の「推理小説的原點」の後編ですが、かなり興味深い内容になっています。今回取り上げられている作品は「失われた手紙」、「黄金虫」と「犯人はお前だ」の三篇で、この稿の最後で御大による推理小説の定義が明らかにされているところに注目でしょう。
「盗まれた手紙」を分析する手法は前篇と同樣で、物語の記述者や推理によって眞相が明らかにされていく過程に着目しつつ、この作品から「利用隱蔵盲點之隱蔵法」「利用行動心理學破案」といった、行動心理や心理的な盲點を利用した作風の類型を抽出するとともに、探偵と犯人がお互いの智慧を闘わせるという、ミステリでは定番の展開を「名探撚與兇手之鬨智類型」という言葉で纏めています。
更に「黄金虫」には「密碼小説及其解謎程序」という暗號の解読をテーマに据えたミステリの原型を見いだし、「最後に探偵が關係者を集めてその前で犯人を指摘する」という、ミステリでは典型の、しかし今となっては大時代的ともいえる見せ場のシーンを「お前が犯人だ」の中から「偵探召集關係者、在大家面前指明兇手之原型」と挙げています。
また「お前が犯人だ」には「證據齊全的兇手、反而非眞兇」(証拠は揃っているけど、実はその人物は眞犯人ではない)、「偵探等於兇手之一人兩職之意外性」(実は探偵が犯人の一人)といった「意外な犯人」の類型もこの作品に見いだすことが出來る。
で、この三作の分析の後、島崎御大の推理小説觀というか推理小説の定義が明らかにされる譯ですが、ここで興味深いのは、戰前の歐米における推理評論界ではデュパンの三部作のみを推理小説とみなし、「黄金虫」と「お前が犯人だ」は純然たる推理小説とは認められていなかったということに言及しているところでして、この二篇が純粋な推理小説だと認められなかった理由というのを引用すると、
其理由是、作品中的偵探之推理過程雖然很精細、但是、作者沒把推理線索提供給讀者。
つまり、作中で展開される探偵の推理はイケているものの、作者が推理を行う上での伏線をシッカリと讀者に与えていないから、この二篇は純然たる推理小説だとは認められていなかったというのですよ。
おや、何だか最近こういう話をどっかで聞いたような氣がするんですけど、氣のせいでしょうかねえ、……って、ここ最近のミステリ文壇をにぎわせている「あの件」についてご存じの方であればピンとくるに違いありません。しかし「手懸かりがないから純然たる推理小説じゃない」っていうのは戰前に既に議論されていたというから驚きではありませんか。何故に二十一世紀に生きている自分たちが再びこのようなかたちで大昔の議論を繰り返さなければならないのか、そこのところはシッカリと考える必要があるんじゃないでしょうかねえ。
と、このような戰前の歐米界での認識を踏まえつつ、御大はここで「讀者に挑戦するかたちでの推理小説」というのはいうなれば「最狹義」の推理小説觀であって、もしこういう基準で推理小説を定義しようとすれば、大戰以後の推理小説のほとんどは推理小説ではなくなってしまうのではないか、と述べています。
そこで御大の推理小説觀が明らかにされるわけですが、これは全文引用しておくと、
「凡是有謎團的事件發生後、偵探登場、根據兇手在犯罪現場所留下的線索、或是從被害者的人際關係(被殺動機)、作邏輯性推理後、解謎破案爲主題的小説、就是推理小説」不論是挑戰型、非挑戰型抑或倒叙型都屬之。Zhe是筆者是「狹義」推理小説的定義、也就是解謎推理小説的定義。
(謎めいた事件が發生した後、探偵が登場し、犯人が現場に残していった手懸かりや、或いは被害者の人間關係(殺される動機)などをもとに、推理を行うことによって謎が解明されることを主題とした小説が、推理小説である」そしてこれは讀者への挑戰を含んだ作風にとどまらず、讀者への挑戰を含まないものや倒叙型もこれに屬する。これが筆者の考える「狹義」の推理小説であり、また謎解きミステリの定義である。)
勿論ここでいわれる探偵というのが職業探偵のみを意味しないものであることは、先月號の「推理小説的原點」の内容に照らし合わせれば明らかでしょう。さらに注目すべきは、讀者への挑戰を含む含まないに關係なく、謎が呈示され、それが推理によって解かれる形式の小説であれば狹義の推理小説であるとしているところで、倒叙ミステリもこの中に含まれている、というところなど、今回ミステリ界をにぎわせた「あの件」に照らし合わてみると非常に、非常に興味深いと思う譯です。
同じくポーの推理小説から導き出された島田御大の本格ミステリー宣言中における本格ミステリーの定義と比較してみますと、「幻想的で、魅力ある謎を冒頭付近に有し、さらにこれの解明のための、高度な論理性を有す小説」という中では「幻想的で魅力ある謎」「高度な論理性」といった、いかにも島田荘司的な抽象的な言い回しが特徴的ではありますが、その骨子は結局のところ、「謎が呈示され、それが推理によって解明される」というところに歸着します。
一方の島崎御大の定義では「根據兇手在犯罪現場所留下的線索、或是從被害者的人際關係(被殺動機)」という具体性が特徴ではありますが、これらは「推理」という言葉の定義を補強するものと考えれば良いのではないでしょうか。だとすれば「謎が呈示され、それが推理によって解明される」というその基本形に大きな違いはありません。
島田御大の本格ミステリーの定義は創作者の側から提案されたものとはいえ、ポーという推理小説の原點に深い考察を行い、その後のミステリ史を踏まえた結果として導き出されたものだとすれば、兩者の定義に共通の要素を見いだすことが出來るというのも当然といえるのではないでしょうかねえ。
そして兩者の定義にはフェアプレイとか、そのテの「讀者への挑戰」に寄り掛かりすぎた言葉は見當たりません。このあたりを見てみると、二階堂氏の本格推理小説の定義の獨自性、というか特殊性、というか奇異性がよりいっそう際だってくる譯ですよ。
一點興味があるのは、島崎御大がこの稿で述べている「狹義」という言葉でありまして、果たして二階堂氏が使っている「本格」という言葉は「狹義」と同樣の意味を持つのか、それとも、氏のいう「本格推理小説」とは広義の推理小説の中に含まれるあくまで一形態に過ぎないのか、というところでしょうかねえ。
……って何だか妙に長くなってしまいましたので、既晴のインタビューとファウストの話は次のエントリで書きたいと思います。という譯で以下次號。