「人喰い」というものものしいタイトルとは裏腹に、推理小説の王道を行く展開の本作は、作者の代表作のひとつといえるでしょう。もっとも以前取り上げた「霧に溶ける」のようなハジけた展開のないところが自分としては少しばかりアレなんですけど、ひと昔前の推理小説の傑作とはどんなものだったのかを知るには恰好のサンプルとなりえるのではないでしょうか。
物語は妹に向けた遺書から始まります。このなかで、彼女が戀人と心中をはかることが語られ、その背景のすべてが明かされます。労働争議に搖れる火藥點で組合の婦人部兼會計部長を勤めていた彼女は、社長の一人息子と戀仲になるのですが、組合の婦人部長が會社側の息子とイチャついてるのは許せないッと第二組合をブチ上げた女性が現れるに至り、これが後の連續殺人事件の發端へと繋がっていきます。
この第二組合をブチあげた女性というのが、組合の婦人部部長を務めていた女性の妹の戀敵だったという事実がありしまして、二人の女性が取り合った男性というのが、組合の執行委員長。つまりすべての人間關係はこの会社の労働組合へと収斂している譯です。
そんな舞台背景が冒頭の長い長い遺書で明らかにされ、そのあとすぐさま姉と心中するといっていた社長の一人息子の死体だけが発見されます。姉の死体が見つからなかったことから、実は心中を裝った殺人なのではないかということになって警察からの嫌疑が姉へと向かうなか、妹はその戀人である組合の執行委員長である男性とともに、事件の真相を突き止めようと、社長の一人息子の死体が発見された山梨縣の昇仙峽へと赴きます。しかしそのあとすぐさま会社に姉が現れ、火藥庫が爆発、爆破現場から木っ端微塵となった死体が発見されます。
果たしてこのムチャククチャになった死体は姉のものなのか、それとも……と思わせておいて、今度は社長の妻が失踪し、續けて社長が倉庫でいかにも不可解な状況で死体となって見つかります。
この社長の殺された状況がいかにも不可解なもので、そこには當然ながら犯人の仕掛けたトリックがある譯ですが、本作で光っているのは、こういった物理トリックよりも、事件全体を覆っている巧みな心理トリックの方でしょう。このトリックは以前取り上げた純文學作家の作品でも使われているものなのですが、これが效果をあげていて、眞犯人の動機を巧みに隱蔽しています。もっとも技の冴えはあちらの作品の方が上で、本作の場合、この眞犯人の行動がその心理トリックの點を除けばいかにもアヤしく、ヤマカンを使えば讀者の誰もがこの人物を犯人だと見拔いてしまうのではないでしょうかねえ。このあたりが少しばかり殘念ですよ。
社長が殺された不可能犯罪はその仕掛けも單純なのですが、妹が途中でブチあげたトリックの方が秀逸。勿論それは呆氣なくダメ出しされて推理は振り出しへと戻る譯ですが、この妹の素人探偵ぶりが微笑ましく、それ故に眞犯人が明らかにされたあとのガックリぶりがいい。
またそんな妹のチャキチャキした活躍とは對照的に、最後は、犯人の手記によって本作のタイトルの意味が明かされるのですが、この犯人の異樣ぶりがイヤな感じを出しています。自分が持っている惡意というものをシレッと述べて平然としているところに靜かな狂氣を感じさせ、推理小説の王道的な事件の展開のなかで、この手記だけが妙な具合で浮き立っているところが本作の個性ともいえるでしょう。
自分が讀んだのは講談社文庫版ですが、本作は日本推理作家協会賞を受賞しただけあって双葉文庫からリリースされている版の方が今となっては手に入りやすいかもしれません。あの時代の推理小説の空気を知りたい人にはおすすめです。