昨晩、中天書坊で放映された特集番組がさっそくYouTubeにアップされているので、リンクを張っておきます。
今、見終わったんですけど、御大の貴重な肉聲が聽けるのは勿論のこと、創作の祕訣や日本推理小説の神といわれることにどう思うかなど、ファン必見の内容です。しかし御大が會場に現れれば「ワオーッ!」「ウワオーッ!」と絶叫し、サインの時には「先生ッ、愛してるーッ!」と悲鳴をあげる台湾のファンの激しさにはタジタジです(爆)。
昨晩、中天書坊で放映された特集番組がさっそくYouTubeにアップされているので、リンクを張っておきます。
今、見終わったんですけど、御大の貴重な肉聲が聽けるのは勿論のこと、創作の祕訣や日本推理小説の神といわれることにどう思うかなど、ファン必見の内容です。しかし御大が會場に現れれば「ワオーッ!」「ウワオーッ!」と絶叫し、サインの時には「先生ッ、愛してるーッ!」と悲鳴をあげる台湾のファンの激しさにはタジタジです(爆)。
横浜散歩のお供に再讀してみました。自分の場合、本作はハードカバー版しか持っていなかったので、今回の改訂完全版を讀むのは初めて、――とはいいつつ圧倒的な讀後感はやはり不動。傑作でしょう。
あらすじはもう説明するまでもないんですけど、主人公である俺が目を覚ますとマッタク記憶がなくなっている。で、俺はある女と出逢ってその後彼女と同棲を始めるものの、記憶を失う前に自分が住んでいたと思われるアパートを訪ねていくと、曰くありげな日記を發見。そこには恐るべきことが書かれていて、……という話。
眞相を知っている状態で本作を再讀してみると、まず前半部で幸せイッパイに横浜デートを満喫している主人公の姿にグッときてしまいます。本格ミステリの場合、その仕掛けや結末を知っていれば再讀のおりには謎解きの愉しみも半減するかと思いきや、少なくとも本作に限ってはそんなことはありません。
ここでフと思い出したのが達人巽氏の「推理小説が二度の語りを備えている」という言葉でありまして、圧倒的な物語性を備えた本作のような作品ともなれば、再讀とは即ちその二度の語りという構造を意識しながら登場人物たちの宿命を追走していく行為ともいえる譯で、特に本作のように巧緻な操りを主軸に据えた作品とあれば、この抗うことの出來ない宿命へと突き進んでいく神話的結構はよりいっそう際だちます。
甘い同棲生活から次第に地獄へと堕ちていく主人公の奈落行そのものも強烈ながら、本作ではここに中盤で見つかる日記の中で開陳されている妻のエピソードも相當に極惡。ワルの奸計にハマっていいように弄ばれしまう女の圖、というのは「涙流れるままに」の通子を彷彿とさせるし、不器用な主人公が女に振り回される構圖は「夏、19歳の肖像」にも通じるものがあり、……というように、島田文學において変奏されているモチーフを探してみるのも再讀ならでは愉しみでしょう。
またその構造に目をやると、仕掛けに大きく絡んでいるとはいえ日記中のエピソードだけでも十分に独立した悲哀物語として讀めてしまうところも「水晶のピラミッド」以降の作中作を展開させる構造にも通じるものがあるのではないかなア、とか、本作で大きく扱われている記憶喪失も、二十一世紀本格によってより明確に打ち出された脳醫學へのアプローチの萌芽と見ることも出來るし、やはり本作は、島田文學の変遷とその全貌を理解する上でも最重要作のひとつである、というのは今更いうまでもありませんか。
あと、ホームズへの回帰という最近の御大の主張を意識しつつ讀み返してみると、御手洗は吉敷と違って天才型のキャラゆえに、關係者から聞き取り調査をやるため時には積極的に動いてはみるものの、本格理解者が忌み嫌う地道な捜査や調査は警察任せ、という印象を持っていたのですけど、後半、御手洗自身が語る推理には吃驚ですよ。
例えば「アパート、マンションの類いを片端から歩いて」手掛かりを探してみたりと、直接的な描寫こそないものの、御手洗もシッカリと地味なことを裏ではやっている譯です。もっともこの時にはパシリに出來る警察の知り合いもいなかったし、地味な聞き込みも自分で行うしかなかったとはいえ、ボンクラワトソンが不在の物語であるがゆえに、こうした御手洗の実直なキャラもより際だっているところもまた、本作の見所のひとつでしょう。
「UFO大通り」ではアンマリな石岡君イジメに眉根を顰めてしまったのとは大違い、「蓑虫さんの空中大邸宅か!」をはじめとした變人演説で見せてくれるところや後半に颯爽と登場する御手洗の無類の格好良さ、さらには「深海魚よ、聴け」の決め台詞など、本格ミステリとしての構造は勿論のこと、文章のディテールに至るまで讀みどころは盛りだくさん。
しかし本作の前半、主人公がヒロインと横浜デートを満喫するシーンを再現しようとすると、氷川丸もマリンタワーも今は営業停止という譯で、船内見学も、バードピアで鳥に餌をやることもかないません。「溺れる人魚」収録の「海と毒薬」で石岡君が書いていた通りに、現在の横浜の変貌ぶりもまた相當のもので、本作に描かれているかつての横浜と現在を比べてみるのも一興でしょう。
あと、「異邦の扉の前に立った頃」というあとがきでは、
今僕は、時に悲しくなることはあるけれど、この作品を書いた頃のような日常的な不安、怯え、そしてやるせなさは、永久に失った。だから、もうこのような作品は二度と書けないだろう。
と書かれているのですけど、本作を再讀してみて、弱いながらも必死に何かを成し遂げようとする主人公の造詣とそれによって醸し出される物語全体のトーンは最近作の「最後の一球」にも通じるのではないかなア、という印象を持ちました。全編に流れる「不安、怯え、そしてやるせなさ」の風格は確かに本作に獨特ながら、作者自身が「永久に失った」ものを、物語の中に甦られることが出來るのもまた小説であって、いつかまた御大はこういう作品を書いてくれるのではないかという氣が個人的にはしているのですが如何でしょう。