日本の本格ミステリが海外で評價されることに関心を持っている自分にとって、今回の「ミステリマガジン」の特集には興味津々、まずは目次から引用すると、マーク・シュライバーの「日本ミステリ英訳史――受容から創造へ」、ジェフ・キングストン「宮部みゆきに見る現代日本――Shadow Family(『R.P.G』)を読む」、川村湊「村上春樹の”人生”というゲーム」、冲方丁「輸出することは驚きを輸入することである」、香山二三郎「この日本ミステリを輸出せよ!」という内容です。
この中では川村氏と冲方氏のエッセイを面白く讀みました。川村氏は「同時代」「同時代性」というキーワードから、村上春樹の作品が海外で飜譯されている現象を論じているのですけど、特に後半、「文化の特異性や特殊性」と「グローバリズム」について語っているところでは色々と考えてしまいましたよ。
マンガやアニメやテレビ・ゲームが、世界を「同時代」にしている。もちろん、日本発のそれらの文化という情報は、「日本的」なものを一方では強く持っている。だが、そうした「日本的」なものが、今や「同時代」なものであり、グローバリズムの指標ともなっているものだ。それは、文化の特異性や特殊性を保ちながらも、いかに世界的な「同時代性」を獲得してゆくかということへの試みなのである。
「日本的」なものが今や「同時代」なものであるというマンガやアニメやテレビ・ゲームと比較すると、日本の本格ミステリは、……なんて溜息が出てしまうのですけど、このあたりの、「グローバリズム」絡みのネタでは、以前アマゾンのサイトに掲載されていた太田克史氏へのインタビューを讀んだ時にも同様の違和感を抱いたことがありまして、「自分のことを面白いと認めてくれる人は世界中にいる」という太田氏の意見には自分も同感ながら、太田氏の場合はここから、
僕、日本の若い作家から世界レベルの、数千万部超のベストセラー作品が出てこないほうがおかしいって今は心から信じてますからね。ある16歳の少年が、学校から iPod で エミネム 聴きながら家まで帰って、「 Wii 欲しいなあ」なんて思いながら プレステ2の「グランツーリスモ 」で遊んで、お母さんと一緒に『 ポケモン 』のアニメ観ながら夕ご飯食べて、宿題やって、ベッドに入って『 ハリー・ポッター』読んで、寝る前に彼女に電話して「今度『 パイレーツ・オブ・カリビアン 』の新作を観に行こうよ」なんて言ってるような生活は、日本の渡辺くんでも、台湾の林くんでも、フランスのピエールくんでも、アメリカのマイケルくんでも、さほど変わりはないでしょう?
というふうになる譯です。まア、自分がエミネムも聽かない、Wiiも欲しくない、プレステもやらない、アニメも見ない、「ハリー・ポッター」も讀まないようなオッサンだから太田氏の考えと異なるというのは當然といえば當然だし、そもそも上の発言において太田氏の頭の中にある日本の小説というのは、自分が讀んでいるような本格ミステリとかではマッタクない譯で(爆)。
しかしそれでも、自分としては本格をはじめとした日本のミステリ小説が世界レベルで評價される土俵は、上で太田氏が頭に思い描いているような場所ではなくて、もっと違うところにあるんんじゃないかなア、という感じがしています。
世界進出なんてトンデモない、という風潮が出版業界には嚴然とあって、太田氏みたいな考えの變人は少ない、というあたりは冲方氏も指摘していて、特に氏の「自国内でのみ売ることを考えた商品に未来はない。どんな作品にも、何かアピールできる力があるはずである」という主張にはウンウンと頷いてしまいましたよ。
もっとも作品をつくる側も評價する側も日本だけに閉じこもっていてもある程度の商賣は出來ている譯ですからそれでもいいのでしょうけど、ボンクラのド素人としては、日本のミステリが世界進出を果たした結果、新しい波が生まれ、そこから素晴らしい歴史的傑作が出てきたりしてくれれば、なんて期待しているんですけど、プロの方々にしてみれば、冲方氏が「理解してみた」通り、「そんなヒマも金もない。そんな面倒なことをする理由がない」ということなのでしょうかねえやはり。
今回の特集でひとつ凄く氣になったのが、日本小説が「ニッポン」小説になっている通り、どうにも飜譯というのがイコール「英譯」であると感じられることでありまして。このあたりがビンビンに傳わってくるのが、香山氏の「この日本ミステリを輸出せよ!」というエッセイです。
氏が取り上げている「輸出」されるべき作品の中でも本格ファンとして注目したいのは、歌野晶午氏の「葉桜」と京極氏の「京極堂」シリーズ、でしょうか。
で、ここからが本題なんですけど、「葉桜」は既に台湾において「櫻樹抽芽時,想・胃」のタイトルで商周出版版から飜譯されておりまして、それが2004年の12月。で、近々日本のミステリを積極的に飜譯紹介している獨步文化から今月末、これの改訂版がリリースされる予定になっています。
さらに京極堂シリーズについてはこれまたトックの昔に飜譯されておりまして、「姑獲鳥の夏」が「姑獲鳥的夏天」として時報出版からリリースされたのが1998年の4月。さらに「魍魎の匣」は同じく時報出版から1999年の11月。
氏曰く、冒頭に「日本のミステリの翻訳事情がどうなっているのか、ワタクシはよく知らないのであった」「なもんでちょっと調べてみた」と書いているのですけど、自分のようなボンクラのド素人がプチブログに書き散らしている文章ならいざ知らず、プロのコラムニストが「ミステリマガジン」に書くエッセイとなれば、「ちょっと調べてみた」が字義通りの「ちょっと」である筈ありません。
だとすると、香山氏は台湾において京極堂シリーズや「葉桜」が既に飜譯されているという事實を知りつつ、敢えてそれをないものとし、このエッセイではこれらの作品が未譯であるとしている譯ですけど、これはいったいどういうことなのか。
で、色々と邪推するに、香山氏にとっての「輸出」とは即ち、歐米各国をターゲットにしたものであって、EQMMに掲載されてはじめて日本のミステリは世界に認められたことになるんだから台湾も含めたアジアなんか知ったこっちゃねえ、ということなのかなア、と思ったりするのですが如何でしょう。上で川村氏が言及している「グローバリゼーション」に絡めて、ここでも色々なことを考えてしまいます。
香山氏のこのエッセイではあともうひとつ、「海外の読者は物語を楽しむ以前にそこに描かれた日本固有の風土や社会システムに馴染めないのではないかと疑っていた」とあるのですけど、このあたりは、ミステリの世界進出を果たすには自國の文化的社会的特色を前面に押し出してみせるべき、と考えている余心樂氏の考えとは大きく異なるようにも感じられます。勿論、「新宿鮫」はすでに英譯もされていて、この香山氏の思いは杞憂に過ぎなかった、ということでこの話は纏められています。
個人的には、日本のミステリの海外普及を考えるには、まず日本のミステリの歴史の中で確立されてきた技巧と、それに對する獨特の「讀み」の技法を海外へ積極的に紹介していくべきだと考えておりまして、光文社と講談社には是非とも千街氏の「水面の星座 水底の宝石」と巽氏の「論理の蜘蛛の巣の中で」を飜譯してもらいたいのですけど駄目ですかねえ。
この二册の中に開陳されている高度な「讀み」の技法もまた、日本のミステリ小説と同様世界に誇れるものだと思うし、そのミステリの技法や技巧を中心にした讀み方愉しみ方が普及してこそ、世界の中における日本のミステリの個性とその先進性をアピールする土壤が出來上がるのではないかなア、なんて思うのですけど、こういう地道なところから日本のミステリを世界レベルで盛り上げていこうというような考え方はやはりボンクラのド素人の愚かな妄想であって、プロにしてみれば國内だけ見てれば沒問題、賣れれば勝ち、歴史的名作など知ったこっちゃねえ、ということなのでしょうか、……なんて考えていると暗くなってしまうばかりなので、とりあえず今日はこのくらいにしておきます。