うっすらとヌーヴォー・ロマン。
創元クライム・クラブからのリリースですからクラニーの新作とはいえ、そこは大眞面目な本格ミステリなのですけど、先日「うしろ」を讀了した後遺症ゆえか、どうにも本作を讀んでいる間もいつ笑いが飛び出してくるのかなア、なんて期待してしまったところがちょっとアレ。
ジャケ帶に曰く「張り巡らされた大量の伏線に、著者は何を仕掛けたのか?」とある通りに、伏線が最後に物語の結構を明らかにする構成が本作のキモ乍ら、「大量の」という形容は些か大袈裟で、大仕掛けなどはそれほど期待せずに、夢のような詩情を添えたクラニー節で幻想的な風景を綴った物語を追いかけていく方が愉しめるかと思います。
物語は、マッチ遊びに夢中な少女が厩を燃やしてしまって大混乱、という、「うしろ」と同様の、眞面目なんだか笑っていいのか頭を抱えてしまうようなプロローグからスタート。從順な執事とともに暮らす熊ちゃん大好き少女のシーンと、世間を騷がせている連續少女誘拐殺人事件に興味津々のミステリ作家のパートとが併行して描かれていきます。
熊ちゃん少女はやや頭が足りないような氣がするものの、寧ろ怪しげなのは執事の方で、少女に眠り薬を與えているし、度々舘を開けては何だかヤバいことをしでかしている気配もある。ミステリ作家もクラニー世界の住人らしく、偏頭痛持ちにして鬱病氣質な雰圍氣をムンムンに漂わせた男でありまして、前の担当編集者の不審死なども絡めて物語は進みます。
時折挿入される女のモノローグめいた台詞が竝ぶシーンは、ミステリ作家の執筆した小説に關連している気配はあるものの判然としない。断片的な情景がさながらヌーヴォー・ロマンのように現れては消えていく構成はミステリというよりは幻想小説の風格が濃厚で、最後にこれらのシーンの數々が伏線へと轉じて、登場人物たちの背後關係が明らかにされるという結構です。
連續少女誘拐殺人事件という、ミステリ小説としては讀者のツカミも充分という謎を配して物語を進めつつ、實際の仕掛けは語られていない登場人物たちの連關圖にあるという構成はモロ好みながら、二人の謎めいた女性の眞相に共通する主題を添えつつも、その他の伏線が強烈な驚きを喚起しないところが本格としてはやや弱い、というか、この系統だとやはり道尾秀介の「骸の爪」とかと比較してしまう自分はちょっとアレ。
道尾氏絡みでさらに見ると、連續少女誘拐殺人事件という、ミステリ趣向も明らかな謎を表に配しつつ、樣々な登場人物の連關や詩情溢れるモノローグが何を意味しているのかというこの物語構造の謎を背後に隱しているところや、さらには表の謎である誘拐殺人事件の眞相が明かされたあとに物語の背景にあった謎が立ち現れる構成などは「向日葵」的ともいえるのですけど、幻想的といってもそこはクラニーでありますから「向日葵」ほどの超絶不条理世界が現出する作風とは大きく異なります。そう考えると、寧ろ表の謎がやや小粒で、最後に明らかにされる世界の謎が主題に絡んでいるところの共通性などから、「向日葵」よりもその変奏ともいえる「片眼の猿」と比較した方がいいのかもしれません。
それでも道尾作品に比較すると弱く感じてしまうのは、恐らく誘拐殺人事件が魅力的でありつつも謎解きの部分であまりにアッサリと流されてしまうところにあるのではないかなア、と思うのですが如何でしょう。
また幻想小説めいた結構に伏線を凝らした構成は秀逸ながら、登場人物たちの心情に踏み込まない輕さが倉阪氏の持ち味とはいえ、例えば道尾氏の「骸の爪」では探偵の推理によって大量の伏線がその意味を明らかにされた瞬間、登場人物たちの煉獄が立ち現れてくる構成などと比較すると、逆に人間が幻想的な情景に埋もれたまま各の感情を明らかにしないところが個人的には物足りない、……というか、やはり自分の中では現在進行形の倉阪氏の作品には「下町の迷宮、昭和の幻 」で魅せてくれた「味」を求めてしまうんですよねえ。
勿論、人情物語としての風格を前面に押し出した「下町の迷宮、昭和の幻 」とは違って、本作は倉阪氏なりの本格ミステリであるゆえに、そういうものを求めてしまうのはナンセンスな話なのですけども、「下町の迷宮、昭和の幻」があまりに素晴らしかったゆえ、どうにも自分は倉阪氏の作品には極上の人間噺か、笑いかのいずれを求めてしまうのでありました。
何だかやたらと道尾作品と比較してみたというのも、伏線や「遠景と近景の落差」にこだわる倉阪氏の本格ミステリに自分は、舘や雰圍氣を十二分に意識した作風にありながら本格理解「派系」作家の作品とは大きく異なる現代的なセンスを感じてしまうからでありまして。
本作にも勿論、倉阪氏がこだわりまくった本格ミステリの試みは感じられるものの、これは未だ「すべての文章……いや、すべてのすべての言葉が伏線になっている小説」に向けての途上にある作品なのだと思います。物足りないだの不滿だのいいつつ、それでもやはり讀ませてしまうのは、伏線の美學を突き詰めようとするクラニーの志とその潛在力を物語の隨所に感じるゆえかも知れません。